ワシントン・ポストの女性社主が小型ヘリに乗り、戦場を視察した
ベトナムで現実に見聞したこと、行ったことについて、どのように対応すべきなのか、私には確信がなかった。もちろん私たちの旅は、同行し案内してくれた広報担当士官たちによって、あらかじめ規制を受けていた。さらに重要なことは、ベトナム紛争の歴史的経緯や関連の諸問題について、私の理解はあまりにも限られており、大部分聞く側にまわり、ほとんど質問しないで終わってしまったことである。また私は、主要問題に関するラス・ウィギンスの見解と、それを基軸として展開されていたポスト紙の論調をいつも受け入れていた。ラスがいかに熱烈に米国のベトナム介入に賛成していたかも十分知っていた。
周囲の男性が述べることを聞く側にまわるという習慣の結果、私のベトナムを去る時の考え方は、ベトナムに到着した時と全然変わっていなかった。つまり、たとえ小規模に限定されたものといえども、米国は最初からベトナムには介入すべきでなかったのだが、現実に米軍が今ベトナムに存在している以上は、共産勢力に対抗する南ベトナムを支援する以外に、取るべき方法はないだろうというものである。
後年になって、チャル・ロバーツが、ウィギンスについて次のように記している。「彼は無思慮なタカ派ではなかった。全面戦争支持派からは、むしろ非難されていたくらいである」。確かに、すべての問題に関して、ラスは無思慮な態度を決して取らなかった。彼は取るべき立場を決める前に、長く苦しい熟考を重ねていたのである。
当時ポスト紙は、ベトナム戦争への米国の介入を強力に支持する論調で有名だった。そしてラスは、リンドン・ジョンソンの戦争政策を、彼が大統領職にある間中ずっと支持し続けていた。これは、ラスがジョンソンの政策に盲目的に追従したからではない。そうではなく、世界の超大国としての責任から、世界のいずれの地域においても、正統な権力が簒奪(さんだつ)されるのを防ぐために米国はその力を行使すべきであると堅く信じていたからである。また彼は、一九六三年当時のベトナム国家元首で、米国と同盟関係を結んでいたジエムの暗殺を、米国側が事前に知っていたという事実が、以後の重大問題を発生させた原因であり、「腐った不誠実な同盟関係」を生んだ元凶であると感じていた。事実、ラスは合衆国政府の国際的な威信を損なわないで、ベトナム介入に替わり得る政策とは何かについて、常に模索を続けていた。
私自身のベトナム戦争に対する立場も、時間がたつにつれてごく僅かに変化はしたが、ラスの見解とほとんど同じだった。しかし、それも私の息子がベトナムに派遣されるまでのことだった。息子の従軍は私に新しい個人的な見解をもたらし、間接的にではあるが当事者としての戦争に対する視点を与えてくれた。そして、フィル・ゲイリンが新しく論説ページを担当するために着任してから、私たちはポストの論調を、徐々に方向転換させていくことになるのである。
私たちは二月一〇日にベトナムを出発し、カンボジアとタイに立ち寄った後、インドへと向かった。インドでは、めまいがするような数日間を送った。中でも最もびっくりさせられたのは、人口問題担当大臣とのインタビューだった。彼は白い色をしていただろうと思われる服を着ていたのだが、埃にまみれたその服は、実際には汚い灰色にしか見えなかった。うす汚れた自室の、ガタガタ音のするデスクの前に座っていたのだが、デスクの上にはさまざまな産児制限の用具が並べられていた。そして、絶えず避妊リングのインサーターを手にして、振り回したり手のひらに打ちつけたりしてもて遊んでいた。そのとき彼が言った言葉を忘れることはないだろう。「避妊リングの使用を始めた婦人の多くが頭痛を訴えますが、私の考えでは、その頭痛は避妊リングからくるものではなく、むしろ姻戚関係の問題からくるものだと思いますね」