最新記事

BOOKS

名作『アラバマ物語』のファンをがっかりさせる55年ぶりの新作

2015年7月16日(木)17時15分
渡辺由佳里(アメリカ在住コラムニスト、翻訳家)

 『To Kill a Mockingbird』そのものが自伝的小説だと言われているが、その元になった新作はさらに自伝的なものを感じさせる。そして、想像以上に小説としての完成度が低い。文章は固く、洗練されていない表現が目立つ。筋書きやテーマに貢献せず「いったい何のためにこの部分を書いたのか?」と首をかしげたくなるような部分も多い。

 そういった面では、じつに「初心者の初稿」らしい原稿だ。原稿を読んだ編集者のテイ・ホホフがこの小説をそのまま出版しなかった理由がとてもよくわかる。ホホフが「これよりも、Scoutの子供時代を描いたらどうか?」と提案し、何度も書きなおさせた結果が名作の『To Kill a Mockingbird』なのである。

 リーの処女作の問題は、小説として未完成なだけではない。本書の主人公とリーの立場は非常に似通っている。アラバマ出身でニューヨークに住む著者はリベラルな友人たちから故郷の人々を批判され、心を傷めていたに違いない。故郷の白人たちを「外の州の人には見えないだろうが、彼らにもこういう言い分があるのだ。残酷な人種差別者ばかりだと決め付けないでほしい」と擁護したかった気持ちがにじみ出ている。Atticusや亡くなった兄の友人Henryを魅力的に描いた後で、彼らに人種分離政策に賛成する白人の立場を語らせているのはそのためだろう。それに対するJean Louiseの強い非難はニューヨークのリベラルの立場を代表するものであり、問題提起としては興味深い。しかし、小説の終わり方からは白人至上主義者擁護のイメージが抜けず、1950年代後半に書かれたことを考慮すると、やはり出版するべき作品ではなかったと言える。

 興味深いのは、リーがAtticusに語らせた南部の白人のセンチメント(心情)が現在とまったく同じだということだ。こんなに時間が経ってもアメリカの人種差別はまだ解決していない。そういう意味でAtticusとHenryの見解は間違っていたことになる。それにもかかわらずこの小説を今になって刊行しようとしたリーの決断には首を傾げずにはいられない。リーに次作を書かせようと支えてきたホホフは、一度として『Watchman』を蘇らせようとはしなかった。1974年に亡くなった彼女が生きていたら、きっと止めたことだろう。

 この小説により、『To Kill a Mockingbird』が与えた強いメッセージが濁る気がするし、Atticusのイメージが変わってファンはがっかりするかもしれない。

 唯一良かったのは、この未熟な小説をあの名作へと高めた名編集者ホホフの指導力を実感できることだ。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、米軍制服組トップ解任 指導部の大規模刷

ワールド

アングル:性的少数者がおびえるドイツ議会選、極右台

ワールド

アングル:高評価なのに「仕事できない」と解雇、米D

ビジネス

米国株式市場=3指数大幅下落、さえない経済指標で売
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 4
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 5
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 6
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 7
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 8
    メーガン妃が「アイデンティティ危機」に直面...「必…
  • 9
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 10
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ...犠牲者急増で、増援部隊が到着予定と発言
  • 4
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    墜落して爆発、巨大な炎と黒煙が立ち上る衝撃シーン.…
  • 9
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 10
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のア…
  • 10
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中