コラム

新型肺炎:1人の医師の死が引き起こす中国政治の地殻変動

2020年02月10日(月)13時10分

李医師を追悼する動きは香港にも広がった(2月7日) Tyrone Siu-REUTERS

<新型肺炎の被害が止まらない中国で、感染拡大を告発しながら当局に摘発され、自らも治療中にウイルスに感染して死去した医師への共感が広がっている。政府への怒りは中国を変える大きなうねりになるかもしれない>

新型コロナウイルスが猛威を振舞っている中国では今、ウイルスの被害者である1人の若き医師の死によって、それこそ嵐の到来を予感させるようなすさまじい抗議運動が起こり始めている。

死者の李文亮は、新型ウイルスの発源地である湖北省武漢中央病院眼科の医師だった。去年12月30日、李医師は約150人が参加するグループチャットで「華南海鮮市場で7名がSARS(重症急性呼吸器症候群)にかかり、われわれの病院の救急科に隔離されている」という情報を発信した。

政府当局が新型肺炎拡散の事実を極力隠蔽している最中だから、感染が広がっている事実を人々に報告した李医師の行動は到底許されない。李医師は直ちに病院の事情聴取を受け、1月3日には管轄区域の警察の派出所に出頭を命じられ、「違法問題」に対する「訓戒書」に署名させられた。

ほぼ同じ時期、武漢では李医師以外にも7人の医者やその他の人たちがSNSで「感染拡大」についての警告を発したが、この7人も全員、李医師と同じような取り締まりを受けた。さらに、地元・武漢のテレビや新聞、そして中国中央電視台(CCTV)までが、彼ら8人のことを「デマの流布者」としてさらした。

しかしその後の事態の推移は、李医師たちの警告が決してデマではなかったことを証明した。むしろ、当局が彼らの警告を圧殺して情報隠蔽を行なった結果、新型コロナウイルスは武漢市内で急速に感染拡大した。1月23日に、武漢という1000万人が住む都会が全面封鎖されるという前代未聞の事態となったが、それでもウイルスはさらに中国全土へと拡散していき、中国国民全員の健康と安全が脅かされる危機的状況となった。

その中で、警告者の李医師自身も医療現場でウイルスに冒された。1月12日に高熱などの症状で入院し、2月1日には新型肺炎と診断された。そして2月6日夜(一説では7日未明)、とうとう帰らぬ人となった。

李医師の無念の死は、武漢市民にだけでなく中国全土に大きな衝撃を与えた。新型肺炎の拡散を警告して当局から不当な扱いを受け、現場の医者として奮闘しながら自らもウイルスの被害者になって命を失った彼は、多くの中国国民にとって悲劇の殉難者であり、尊敬すべき英雄でもあるからだ。

政府の思惑を越えて広がる抗議の波

彼の死が伝えられた当日の晩から、中国のSNSで李医師はもっとも注目される話題となり、検索サイトでの「李文亮」という固有名詞の検索数は1位となった。同時に、李医師の死を弔う声、彼の行為を絶賛する声、そして当局の不当な取り締まりに対する憤慨の声、政府当局による情報隠ぺいに対する批判の声がネット上にあふれた。

7日、上海の地方紙である『新民晩報』は朝刊1面にマスクをつけている李医師の写真を大きく掲載。彼の死を追悼すると同時に、「情報の公開と透明性」が必要だと強調する記事を載せた。『新民晩報』は記事の中で、李医師のことを「吹哨人(警笛を鳴らす人、告発者)」だと称賛した。

そしてその日の晩、まさにこの「警笛を鳴らす人」の死を弔うべく、中国各地で午後9時から室内の照明を点滅させ、口笛を吹く追悼行動が実施された。官制メディアはいっさい報じていなかったが、ネット上の映像には、夜になって口笛を吹く各地の市民たちの姿が映し出されていた。

このような動きに対して、警戒心を抱く政府当局は直ちにさまざまな対策を打ち出した。ネット上の批判の声を片っ端から削除する一方で、自ら一転して「デマ流布者」として処分したはずの李医師の死を弔う態度を示した。中国外務省と国家衛生健康委員会は7日の定例記者会見で、李医師の死去に哀悼の意を表明した。同じ日、公務員の不正を取り締まる国家監察委員会は、李医師を処分した武漢市当局の対応に問題がなかったか調査に乗り出す、という異例の発表を行った。

つまり政府当局は、ネット上の政治批判を引き続き圧殺する一方、調査による李医師の名誉回復を示唆することによって国民の憤懣を和らげ、事態の沈静化を計ろうとしている。

しかし政府当局の企みは見事に外れている。今回の事態はもはやごまかしの小細工で収拾できるものではない。7日以降、李医師の死を弔う動きがあっという間に、言論の自由を求める怒涛のような政治運動へと広がっている。

プロフィール

石平

(せき・へい)
評論家。1962年、中国・四川省生まれ。北京大学哲学科卒。88年に留学のため来日後、天安門事件が発生。神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。07年末に日本国籍取得。『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)で第23回山本七平賞受賞。主に中国政治・経済や日本外交について論じている。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米GDP、第1四半期速報値は0.3%減 関税前の駆

ワールド

米ADP民間雇用、4月6.2万人増に鈍化 予想下回

ワールド

中国経済、国際環境の変化への適応が必要=習主席

ワールド

独メルツ政権5月発足へ、社民党が連立承認 財務相に
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 4
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 5
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 6
    中居正広事件は「ポジティブ」な空気が生んだ...誰も…
  • 7
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 8
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 9
    トランプの中国叩きは必ず行き詰まる...中国が握る半…
  • 10
    【クイズ】米俳優が激白した、バットマンを演じる上…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 5
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 10
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story