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冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
新作『多崎つくる・・・』で村上春樹はどこへ向かおうとしているのか?
村上春樹氏の文学に関しては、昨年に「ノーベル文学賞を逃した」際に、私はこの欄で「村上文学のとりあえずの現在位置」を確認しています。それは、まず若き日には日本の左右の政治的立場への「コミットメント」を拒否し、この世界全体への違和感に正直になることから「デタッチメント」という生き方を表現。それは究極の個人主義、あるいは個という視点から見た小宇宙のような世界だった、という認識から始まります。
その後の同氏のスタイルは少しずつ変化しています。まず、オウム事件の被害者への共感から「正義へのコミットメント」という立場へ移動しながら、一方では「大衆社会の相互監視」的なもの(「リトル・ピープル」など)との対決といった「新たなデタッチメント」を経験したり、その一方で『1Q84』に顕著な「性的な刺激、老いの悲しみ」といった「身体性へのコミットメント」に傾いたり、揺れと過渡期の中にあるように思われる、昨年の時点ではそのような指摘ができたと思います。
こうした観点から、今回発表された新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読むと、村上文学は、ここで相当に立ち位置を変えて来ていることが分かります。
というのは、まず物語の主人公であり、全体のストーリーの視点と語り手を兼ねる「多崎つくる」が、事実上の一人称でありながら、過去の村上作品の主人公とは決定的に異なる位置を与えられているからです。
多くの村上作品では主人公は「僕」という一人称として設定され、「世界との距離感を大切にする観察者」という役割を与えられていました。例えば、友人や恋人の自殺という経験も、それが直接「傷」となったという認識ではなく、「不可解で暴力的な経験」という受け止めがされ、その結果として「僕」はより冷静に、より醒めた観察者として「世界」との距離を置くというのが通例でした。
例えば『ねじまき鳥クロニクル』では、戦争という暴力が描かれますが、これも冷静な距離感での観察がされるということには変わりませんでしたし、『1Q84』では珍しく「天吾と青豆」という三人称として主人公が設定されていますが、その背後にある「作者の視線」ということでは、暴力性のある新興宗教や、不気味な追跡者への「まなざし」は依然として距離感を保った冷静なものであったように思います。
こうした主人公、あるいは作者の「冷静さ」とか「世界との距離感」というのは、ある種の「強さ」と言ってもいいですし、「強さ故の孤立」であるとか、「自分の魂は売り渡さないという美学」であるとも言えます。
最近の講演で、村上春樹氏は「川端康成への違和感」を口にしていますが、川端作品の芸風というのは「自分の弱さを徹底して見つめ」て、そこから(悪く言えば)「開き直る」ところから微光のような救済の瞬間を演出するスタイルであり、村上文学の美学とは相容れないのはよく分かります。
ですが、本作の「多崎つくる」はこれまでの村上文学とは決定的に違うのです。
村上春樹氏は、ここで形式的には三人称、実質的には一人称の主人公に「傷」を負わせています。しかも大変に深い傷であり、自殺を意識したという記述まで加えています。これは過去の村上作品にはなかったことです。
では、どうして主人公「多崎つくる」は「傷」を負わされたのでしょうか? それは「つながる」ためです。この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のテーマは、一見すると「関係性の修復」であり、主人公にフォーカスするならば「傷からの快癒」のように見えます。ですが、それはあくまで表層のストーリーであり、その奥には「傷を負った者同士」だからこそ「つながる」ことができるという関係性の再定義があるように思います。
ここに至って、村上文学は「世界からのデタッチメント」でもなく、「被害者の正義へのコミットメント」でもなく、「自らの傷と向き合う」中で、「傷を背負った者同士」が「個と個の関係性というコミットメント」が可能だという場所へと進んで行ったのだと思います。これまでの村上文学とは決定的に違うというのはそうした意味です。
小説以外にもメッセージ発信の機会が増えている村上春樹氏ですが、話題になった「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」という2009年の「壁と卵」スピーチでは、「暴力性へのデタッチメント」と「被害者の正義へのコミットメント」という従来の立ち位置とは変わらないものが感じられました。
ですが、先月のボストン・マラソンにおける爆弾テロ事件を受けて「ニューヨーカー」誌に寄稿した『ボストン、ランナーであると自認する一人の世界市民として』というエッセイでは、「過去に6回出場」したボストン・マラソンを深く愛する者として「自分もまた傷ついた」という表現を使っています。この観点は「壁と卵」の思想とは違っており、「多崎つくる」の位置と共通するように思われます。ここにも「自らの傷と向き合うことでつながってゆく」という思想が感じられるからです。
では、この村上文学の「新境地」をどう評価したら良いのでしょうか?
1つは、これは敗北だという評価が可能です。混乱が続く21世紀の世界では、「冷静な傍観者」というのは「貴族的な精神の特権階級」だという暗黙の攻撃を受ける中で、自身が「孤立を貫くことが果たして善であるか」という自問自答の中から「後退」に至ったという見方ができます。更には「自尊感情のレベルが総崩れになっている日本の特殊性に引きずりこまれた」という批判も可能でしょう。
一方で、そうではなくて成熟であるという積極的な評価も可能です。「傷を負ったものの連帯」と言っても、それは被害者意識による団結であるとか、将来的には攻撃性へと転化してダークサイドに行くような危険なものではなく、もっとスピリチュアルなものという見方です。使徒マタイの言う「心貧しき者は幸いなるかな」とか、親鸞の思想にある「悪人正機」などにも通じる境地とでも言いましょうか。また、この「傷を負った者の連帯」という思想こそ21世紀には世界的な普遍性があるという見方もできます。
あるいは、もっと自然なものかもしれません。東日本大震災における被災者との連帯、あるいは今回の「多崎つくる」とその友人たちといった「団塊二世」以降の世代が直面している世界的な社会苦への密やかな連帯といったものから、肩の力が抜けるように「冷静な傍観者」という位置からスッと歩み出たということなのかもしれません。
いずれにしても、本作で村上文学は新しい境地へと踏み出しました。その真価は次作以降で問われることになるのだと思います。
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