親ガチャ論議が広がる日本は「緩やかな身分社会」
FIGURE, FROM LEFT: WAKILA/ISTOCK, THANYATHEP EAKPHAITOON/ISTOCK; YOYOCHOW23/SHUTTERSTOCK (CAPSULE)
<「親ガチャ」という言葉が話題だ。「どうせ親ガチャなんだ」という認識がある種のカタルシスをもたらすのは、日本が建前と現実の乖離した社会だからだろう。しかし、この言葉にはズレがある>
「親ガチャ」という言葉が話題だ。ネットだけでなくテレビのワイドショーでも取り上げられている。
「ガチャ」の語源はカプセルに入った玩具がランダムに出てくる「ガチャガチャ」。多くのスマホゲームにも似たような仕組みがある。
要するに「親ガチャ」というのは、自分の人生は親や家庭によって決まるところ大であり、にもかかわらずどんな親のもとに生まれてくるかは運任せ、金持ちの家庭ならアタリ、貧しい家庭ならハズレというような話だ。
実際のところどれだけの若者がこの言葉を使っているのかは不明だが、多くのメディアが取り上げたことで認知は大きく広がった。いずれにせよ、「親ガチャ」には誰しも何かしら言いたくなるところがあるようだ。
身もふたもない話だが、日本社会には生まれによる不平等がある。教育学者の松岡亮二氏が『教育格差』で示した分析によると、戦後の日本は公教育を通じて建前としての平等な機会を提供してきたものの、実際には生まれ(出身家庭の社会階層や出身地域)による最終学歴格差が存在する「緩やかな身分社会」だった。
現在の日本はもちろん身分社会ではない。だが人生のスタート地点での不平等を社会的な仕組みで完全に打ち消すことはできておらず、東大生の家庭の年収が平均よりかなり高い事実なども指摘されてきた。
一方には生まれながらの恩恵が、もう一方にはハンディキャップがある。厳しい境遇からの立身出世話が好まれるのも、結局はそれがレアであることを私たちがよく知っているからだ。
だが、高学歴や高所得などで「成功」を遂げた人は、それを自らの努力や能力の結果と捉えがちだ。そして同じ尺度で他人を「失敗」したと見下してしまう。マイケル・サンデルの話題の新刊『実力も運のうち 能力主義は正義か?』もこの問題を指摘している。
現代の能力主義社会において、社会的格差は単に経済的な問題にとどまらない。むしろ不当なおごり、敬意の不足、屈辱や怒りのほうにより強く関わっている。
「どうせ親ガチャなんだ」という認識がある種のカタルシスをもたらすのも、日本社会が建前と現実が乖離した「非公式の身分社会」だからだろう。そして、そうであるにもかかわらずその事実を直視してこなかったからではないか。
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