コラム

EU離脱か残留か、今もさまよう「忠誠心の衝突」

2015年10月15日(木)17時47分

 保守党の緊縮財政策については「歳出削減はいつも不人気だが、政治家はそれを実行する勇気を持たなければならない。まず国民に真実を伝えることだ」と語った。最後のインタビューは消え入りそうな声で、何を言っているのかメモも取れなかった。録音機を聞き返しても聞こえず、記事にできなかった。

 気性の激しいサッチャーに野党党首時代から最も長く仕えたハウは物静かで、フクロウのような賢さと、忍耐強さ、強固な意思を兼ね備えていた。労働党の政敵デニス・ヒーリーからハウの攻撃は「死んだ羊にかみつかれるようなもの」とこき下ろされたが、その評価は間違っている。

 深刻なスタグフレーションを克服するため緊縮財政を打ち出した1981年予算には経済学者やエコノミスト364人が反対書簡を英紙タイムズに掲載した。しかしケインズ主義から新自由主義経済への方向転換で、ハウは見事に英国経済をよみがえらせる土台をつくった。世界経済の好転という幸運もあった。

 決断と行動の人サッチャーは、ハウの持って回った慎重な言い方が我慢ならない。英国経済の建て直しでは利害が一致していたが、米国との「恋愛関係」とまで評されたサッチャーと、米国をしのぐ経済圏である欧州との統合を目指すハウの溝は次第に埋められなくなっていく。

 ハウと後任の財務相ローソンがERM(欧州為替相場メカニズム=ユーロの準備段階)加入を表明しない限りは同時に辞任するとサッチャーを脅し、要求をのませた。しかしサッチャーの反撃もすさまじく、ハウは実権のない副首相に降格された。

 90年10月、ローマでの欧州理事会でサッチャーは初めて「英国は永遠に単一通貨に参加しない」と表明した。一方、ハウはサッチャーに断りなく「英国は単一通貨の原則に反対しない」と発言した。

 帰国後、サッチャーは、「欧州議会は下院、欧州委員会は執行機関、閣僚理事会は上院」というドロール欧州委員長の案に「ノー」を3回突き付け、単一通貨はサッチャー政権の方針ではないことを確認、ハウは辞任に追い込まれる。

「柔軟だったサッチャーが最後は独善に陥った」

 ハウは政局とは無縁の、政策の人である。だからこそ肌合いの違うサッチャーと長続きした。「それまでのサッチャーは周りの意見を取り入れ、柔軟に妥協していた。しかし、最後は柔軟性を失い、独善に陥った」とハウは静かに言った。英国の未来は欧州とともにあるとハウは信じていた。

「忠誠心の衝突」と題した90年11月13日、ハウの下院での辞任演説は英国の政治史に刻まれている。

プロフィール

木村正人

在ロンドン国際ジャーナリスト
元産経新聞ロンドン支局長。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『欧州 絶望の現場を歩く―広がるBrexitの衝撃』(ウェッジ)、『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。
masakimu50@gmail.com
twitter.com/masakimu41

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

日経平均は4日続伸し一時3万6000円回復、米中摩

ワールド

プーチン氏、北朝鮮の協力に「心から感謝」 クルスク

ビジネス

NEC、今期の減収増益見込む 25年3月期営業益は

ビジネス

三菱電の今期営業益 過去最高更新へ 米関税の影響も
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 5
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 6
    体を治癒させる「カーニボア(肉食)ダイエット」と…
  • 7
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 8
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 7
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 8
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 6
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 7
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 8
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 9
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 10
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story