コラム

イギリスを悩ます「安楽死」法の重さ

2024年12月04日(水)14時18分

テレビジャーナリストで末期患者でもあるエスター・ランツェンなど、何人かの著名人がこの法律に賛成の声を上げている。当然のことながら、避け難く苦痛が伴う最期に直面した時に、安楽に人生を終える選択肢を持ちたいと切望する人々に対しては、同情以外感じないだろう。

それに対し、危ぶむ側の声はあまり大きくない。理由の1つは、プロライフ(生命尊重)を主導するであろうカトリック教会と英国国教会の道徳的権威が、ここ数十年の虐待スキャンダルで失墜しているからだ。

代わりに、たとえば娘を幼少期に亡くしたゴードン・ブラウン元首相が、必要なのはより良い終末期医療のほうだと主張しているように、プロライフ論をリードする役目は個人に委ねられてきた。

この法案を支持する人々は、決して無理強いなど発生しない世界一厳格な仕組みができていると主張している。にもかかわらず、高齢者や重度障害者に対し、苦しむ家族や逼迫した国民保健サービス(NHS)の「お荷物になる」のをやめるべきではないかと、さりげなく何度もプレッシャーをかけることになるのではないかとの懸念の声もある。


鬱々とした日本映画『PLAN75』は、その行く末を極度のディストピア視点で探求した。この映画では、国家が文字どおり、人が死ぬためにカネを払う。

提起するのは重要な問題だ――高齢者は自分を社会の「コスト」のように感じ、自らを犠牲にするよう仕向けられているのだろうか?

イギリスの高齢者は、築いてきた資産を介護施設で過ごす晩年で使い果たすことも多く、孫たちに何も残してやれないと大っぴらに嘆くこともある。

「死のマニュアル」採用の過去

善意のつもりがいかにひどい誤りになり得るか、イギリスは経験をもとに熟考すべきだろう。

1990年代後半にイギリスでは、終末期患者にきちんと平準化したケアを行うため「リバプール・ケア・パスウェイ」という看取りケアプログラムが策定された。リバプールを皮切りに、2009年から全国のNHS病院で採用。ところが官僚的で柔軟性に欠ける運用だったため、2013年までには下火になった。

終末期患者だけでなく、末期症状とみなされた患者は、食べ物を与えられないなどして死へと追いやられたようだ。患者個々のニーズや状況はほとんど、あるいは全く言及されなかった。

あからさまな悪意こそなかったものの、医療者は「パスウェイ」マニュアルを忠実に守り、「死への道」と見まごうものを作ったのだ。

20250401issue_cover150.png
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2025年4月1日号(3月25日発売)は「まだ世界が知らない 小さなSDGs」特集。トランプの「逆風」をはね返す企業の努力が地球を救う

※バックナンバーが読み放題となる定期購読はこちら


プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ミャンマー地震の死者1000人超に、タイの崩壊ビル

ビジネス

中国・EUの通商トップが会談、公平な競争条件を協議

ワールド

焦点:大混乱に陥る米国の漁業、トランプ政権が割当量

ワールド

トランプ氏、相互関税巡り交渉用意 医薬品への関税も
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:まだ世界が知らない 小さなSDGs
特集:まだ世界が知らない 小さなSDGs
2025年4月 1日号(3/25発売)

トランプの「逆風」をはね返す企業の努力が地球を救う

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    突然の痛風、原因は「贅沢」とは無縁の生活だった...スポーツ好きの48歳カメラマンが体験した尿酸値との格闘
  • 3
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「最大の戦果」...巡航ミサイル96発を破壊
  • 4
    最古の記録が大幅更新? アルファベットの起源に驚…
  • 5
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジ…
  • 6
    なぜ「猛毒の魚」を大量に...アメリカ先住民がトゲの…
  • 7
    「炊き出し」現場ルポ 集まったのはホームレス、生…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 10
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 1
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山ダムから有毒の水が流出...惨状伝える映像
  • 2
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き詰った「時代遅れ企業」の行く末は?【アニメで解説】
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    「テスラ離れ」止まらず...「放火」続発のなか、手放…
  • 5
    【独占】テスラ株急落で大口投資家が本誌に激白「取…
  • 6
    「低炭水化物ダイエット」で豆類はNG...体重が増えな…
  • 7
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥ…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジ…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    テスラ離れが急加速...世界中のオーナーが「見限る」…
  • 5
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 6
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 7
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 8
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 9
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 10
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story