韓国の春に思うこと、セウォル号事故から10年
「セウォル号事件」の悲しみ
韓国の春に新たな記憶が書き込まれたのは2014年4月。大型旅客船「セウォル号」が韓国南部の珍島沖の海上で転覆した。「全員救出」の速報に皆が安堵したのも束の間、それは大誤報だった。家族が現場に向かうなか、傾き始めた船はどんどん沈んでいき、人々が海に飲み込まれていった。テレビカメラはその様子をとらえていたが、誰もが眼の前で起きていることが信じられなかった。
死者・行方不明者は304名、その多くは修学旅行中の高校2年生だった。現場には海洋警察の救助船もヘリコプターもいたのに、沈みゆく船を前に何もできなかった。なぜ、助けられなかったのか。誰もが茫然自失となった。韓国全土が悲しみに包まれた沈没事故は、まさに「事件」だった。
あの日の映像は、今の韓国ではもう見られない。セウォル号事件をテーマにした映画『君の誕生日』が公開されたときも、「船の映像は出てきません」という注意書きを見て、映画館に足を運んだ人が多かった。私もその1人だった。事故当時に自分が無我夢中で書いた原稿すらも、後になって読めなくなった。そこに船の写真が掲載されていたから。それは後になって削除された9.11の映像や、放映段階で泣きながら切り取られた3.11の映像と同じだった。
今も追加される記憶
今年の4月16日で、セウォル号事件からちょうど10年となる。節目の年に、遺族たちは事故現場の海からソウルまで慰霊の行脚をし、また記録集やドキュメンタリーも作られている。そうして、私たちは新しい事実をまた知ることになった。
「やっと話せるようになりました」
その言葉はこの10年間で何度も聞いた。映画『君の誕生日』は、同じ被害者遺族すらも避けてきた母親が、やっと我が子の死に向き合えるようになるまでの物語だった。沈黙したのは、遺族だけではなかった。傷が大きすぎて語れない人もいれば、自分の傷などは小さいからと抑え込んでしまった人たちもいた。
3・11の後の日本でも、そういう話をよく聞いた。
最近、翻訳した韓国のインタビュー集に、事故の1年後に亡くなった潜水士の妻の話が出ていた。遺体収集には民間のダイバーたちがあたったのだけれど、作業の途中で亡くなった人もいたし(偶然ながら友人の高校の同級生だった)、その後に身体や精神を壊した人たちもいた。
ダイバーは犠牲者の最期の様子を見た唯一の人たちだった。沈んだ船の船室で、生徒たちの遺体は肩を組み、抱き合っていることもあり、手をしっかりつなぎ、もつれあっていることもあったという。つないだ手をはずして、1人ずつ抱きかかえて、292人を船から引き上げた。沈んだ船の中で見たことを、自分の家族にも話せなかったという。
「一刻も早く家族の元に返してあげたい」という思いで無理したことで、多くのダイバーが潜水病から骨壊死を起こして、二度と海にもぐれない身体になった。彼らは職業潜水士だったけれど、遺体収容はボランディアで行ったことであり、労災の対象にもならなかった。
そのうちの1人は4月8日の京郷新聞のインタビューで「今もパニック障害・不眠症・外傷後ストレス障害(PTSD)で睡眠薬や精神安定剤など8つの薬を飲んでいる」と語っていた。
過去の事件や事故に対して、「いつまで、そのことにこだわるのか?」という人もいる。でも今になって「やっと語れるようになった」人もいる。春が来るたびに、私たちはそうやって記憶を追加していく。記憶を語ってくれる人は、多ければ多いほどいいと思う。私たちはとても忘れやすいのだから。