- HOME
- コラム
- フローランの日本文化論
- 南アフリカの奇跡、シヤ・コリシが教えてくれたこと
南アフリカの奇跡、シヤ・コリシが教えてくれたこと
ラグビーW杯2019日本大会で優勝を果たした南ア代表とキャプテン、コリシ(中央)と多様な人種のチームメイト Matthew Childs-REUTERS
<南ア代表のW杯優勝を牽引した黒人初のキャプテン、シヤ・コリシの不屈の物語は、南アにとっても日本にとってもお手本になる>
ラグビー南アフリカ代表初の黒人キャプテン、6番のシヤ・コリシは国民的ヒーローになりました。
That special moment pic.twitter.com/lzlVyBjaKE
— Springboks (@Springboks) 2019年11月5日
スプリングボック(南アを象徴するカモシカの一種)の6番はそもそも伝説的な背番号です。
アパルトヘイト(人種隔離政策)廃止後の1995年、南アで初めてに開催された国際的スポーツ・イベントがラグビーワールドカップ(W杯)で、決勝の大舞台で地元チームの優勝を祝った時にネルソン・マンデラが着ていたユニフォームが6番だったのです。
それから約15年、その遺産を受け継いだコリシ選手はマンデラに負けない波乱万丈な人生で知られます。
アパルトヘイトが廃止された1991年に生まれたコリシ選手は南部のスラム出身で、母親が16歳のときの子どもだったため、祖母の家で育ちました。
食べ物もなければオモチャもない、昼に学校の食堂でもらうピーナッツペーストのトーストが1日の栄養のすべてでした。家では硬い床に寝て、学校が終わればゴミ収集場のタイヤとレンガで遊ぶしかありませんでした。
10代前半で自分を見守ってくれていた祖母が倒れ、突然亡くなります。死体にも初めて触れ、人生はどこまでも冷酷でした。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を連想させる寂しい物語、しかしコリシの希望は自分の想像力から生まれる夢にではなく、自身の身体能力にありました。
近所の黒人ユース・ラグビー・チームとの練習に打ち込み、12歳に参加した草大会で奇跡的に街の高級私立中学校のラグビー関係者にスカウトされ、奨学金まで得ます。白人の子どもに囲まれ、ラグビーに打ち込み、学校のチームのリーダーになります。
それ以降、ラグビー選手としての上達と出世は止まるところを知りませんでした。
目立たない重労働をこなす
6番の選手は守備に徹する三列目のフランカーです。派手なプレーで目立つこともなく、80分間ひたすら対戦相手をタックルし、走り、スクラムの中でも、選手の塊の中でも、重労働を求められます。W杯日本大会でも彼はまさに影武者となり、MVPに選ばれた7番のデュ・トイとともに決勝のイングランドのすべてのプランを潰す大活躍を見せました。
白人学校に通うまで英語ができなかったコリシ選手、試合後のインタビューでは世界中のスポーツファンに第二の言葉である英語で堂々と母国のプライドを語りました。
この筆者のコラム
日本の民主主義は機能しているか、2021年東京五輪のレガシーは何か 2020.05.11
『テルマエ・ロマエ』で観光客を誘致する駐日イタリア大使に聞く 2019.11.25
南アフリカの奇跡、シヤ・コリシが教えてくれたこと 2019.11.07
親日だけじゃないジャック・シラク──フランス人が愛した最後の大統領 2019.10.01
2024年五輪開催をテコに生まれ変わるパリがすごい! 2019.08.14
フランス外交には女性改革が必要だ 2019.05.23
オリンピック開催を日本は生かせるか(フランスは生かしています) 2019.03.20