最新ポートランド• オレゴン通信──現地が語るSDGsと多様性
ポートランドの多国籍民と多様性、互いを尊重するヒント
| 移民?異文化?多様性への入り口と背景
ウクライナ避難民の日本受け入れ。過去の他国からの多国籍民の受け入れ対応との温度差。アジアからの技能実習生の再来日。このような、多くの異国籍の入国というニュースが日本では目立ってきている。
初夏を迎えた緑あふれる公園で、建築会社で働くホリーさんに著者が今の日本のトピックを共有すると。あえて明るく振る舞いながら、自分の生い立ちを淡々と語り始めてくれました。
「1987年に韓国で生まれた私はね、出生と同時に乳児園へ放棄されたの。その翌年、養子としてアメリカに渡ってきたのよね。もちろん、当時1歳の私には自分の意志や選択権なんて無いし。なんていうか、見ず知らずの白人の養父母の元へ飛行機で輸出されたっていう感じかな。」
韓国の海外養子縁組の歴史は、あまり一般的に知られていないかもしれません。朝鮮戦争後の経済回復期に、韓国の多くの家族は子供を育て上げる余裕がない経済状態に陥っていました。同時に、政府による出産管理政策はしっかりとたてられていません。とはいえ、戦争復興ということでベビーブームをもたらします。この矛盾が、家系を継ぐ男の子は家に残し、女の子が生まれた場合は涙と共に養子縁組として海外へと送り出される傾向へつながったと言われています。
韓国保健福祉部の公式統計によると、1950年代以降17万から20万人の子供が海外に養子縁組として送られたそうです。そしてその数は、1980年代にピークに達しました。その後、韓国は1980年代に生まれた『赤ちゃん輸出国』という汚名を一掃するために、子供と福祉に関する法的規制を積極的に強化していきます。
この時代を象徴するひとりがホリーさん。養女としてやってきたのは、ミシガン州の田舎町。町の住人は、たった2,000人程の農村地帯。99%が白人の町で白人の養父母の基、その地域の白人の文化と価値観の基で育ちました。
「安易に想像できると思いますが、とにかく白人ばかりの小さな地域で育つのは苦しかった。実際に育った生活環境下で、アジア系の家族を見た記憶は一切ありません。もちろん、自分の養父母と一緒に行動する時には、人々の興味の視線を浴びながらの外出です。
学校や近所の子供たちからは、私の容姿や身長を理由にあからさまにからかわれ、常にいじめられていました。田舎町の大人からは、面と向かって「自分の国に帰れ」「うちの子どもとは付き合わせない」と言われ続ける日々。今考えれば、彼らから吐き出される言葉は、無知からくるものだと想像つきますが。
特に思春期の頃は、アジア人の自分のルックスが大嫌い。白人に見られたい! 白人と同じように扱ってほしい! そう切望していました。養父母に育てられ、白人の心と脳を持った自分。でも、他の人からは、アジア人という外見だけで判断をされる。そのギャップが激しくて、自分のアイデンティティに戸惑い苦しみながら毎日を過ごしていたのです。」
| 私って、なに人? 多様性との出会い
今では、アメリカの海外養子縁組の環境も大きく変わっています。海外から養子を迎えるプロセスとして、幼児の出生国とその文化を尊重し学ぶことを養父母に義務付けることも常です。
でも、約40年前の海外養子縁組では、アメリカ人として育て上げるということが幸せの第一歩と考えられていました。
「私の養父母は、私の子供時代に有色人種や韓国の文化を取り入れるということには、心が向いていなかったように感じます。でも、思春期にとても思い悩んでいた私を見かねた養母は、隣町に韓国人がピアノを教えているという事を耳にして、その教室に通い始めさせてくれました。
そのピアノの先生は、それはとても暖かく素敵な女性でした。白人の田舎町で苦しんでいた私の環境を思い憂って、優しく接してくれたのです。同時に、ピアノのレッスンの間に、簡単な韓国語も教えてくれました。私にとって、それは初めて聞く生の母国語。ピアノの音色と先生の口から発せられる優しい響きに、涙があふれて止まらなかったのを覚えています。
私は生まれて初めて、『他人に温かく見守られる素晴らしさ』を体感しました。そこからです。この小さな町を出て、多種多様な人に出会いたいと切願するようになったのは。」
大学に行かない人も多かった田舎町の環境の中、必死で勉強をするホリーさん。そのかいあって、都市部の大学へ、そして大学院へと進みます。その後、就職を機に大都市のシカゴに移り住み、人種や性別を超えた人たちとの友情をはぐくんでいきました。
「多種多様な文化や人々に出会い、そこから自分が何者であるかを理解していくこと。それは、私にとって不可欠なプロセスだったのです。同時に、『違う人』であった自分自身をありのまま受け入れる。そんな、自分探しという時間も多く費やしました。
『違うこと』も良しとする。そこを互いの共通項として、同じ感覚を持った人々と出会い親交を深めていく。そんな経験を重ねることで、孤独感と疎外感は徐々に薄らいでいったのです。
多様な文化的習慣を取り入れた私は、今でも『私自身として生きる』ことに心を向け、自分自身を愛することを学び続けています。」
人種の違いからくるアイデンティティの喪失と苦悩。日本に住むあなたに、もし当てはめるとすると『精神的、文化的、地域的、性的な少数派』という点で、共感する部分があるかもしれませんね。
|『マイクロアグレッション』という、無意識・自覚のない・無知ゆえの差別発言
成長をしていく中、養父の影響から建築学科へと進んだホリーさん。その後、建設施工管理学を大学院で学びます。
現在は、米国有数のゼネコン会社のポートランド支社、公売部部長として勤務をしています。全国に25のオフィスを持つこの会社は、従業員数は4,000人以上。社員は白人や男性が中心です。
「女性が、建築分野で働くことは至難の業です。活躍をするという以前に、女ということだけで十分に大変なこと。ステレオタイプな思考、意識的・無意識的な性差別をかいくぐりながら、男性の同僚と同等かそれ以上の価値があること。それを常に証明し続けなければならないからです。
今では少しマシになりましたが、入社したばかりの頃は、ヘルメットをかぶって現場を歩いていると男性からは興味本位の視線の嵐。異物のように見られ、扱われていたのをはっきりと覚えています。現場での計測中に、お嬢ちゃん扱いをされたり。かと思うと、お手並み拝見とばかりに、あら捜しをしている男性が多くいたのも事実です。そしてその傾向が、まるっきり無くなったとは言えない現状。とても悲しい限りです。」
そんな職場環境で、『精神的に一番きついな』と感じることはことはどんな時ですか。こう聞くと、真剣なまなざしで話を続けます。
「プロジェクトチーム内の会議、外部会社とのやり取り。そのようなシーンで、その場にいる唯一の女性または有色人種であることが多々あります。そのため、会議が進行していく中で『マイクロアグレッション』と呼ばれる無意識・自覚のない・無知ゆえの差別発言を多く浴びることが常です。もちろん、意識的に微妙にその部分をついてくる嫌な人もいますが。
ですから、いつ、どのような発言をどのようにすべきか。それを常に考えていることが必要となってきます。でもそれによって、心と脳が収縮してしまい。堂々と自分の意見が言えなくなってしまったり。正しい判断を導くのに時間がかかったりもします。正々堂々と毅然とした態度でいる。常に自分との闘いです。」
もちろん、マイクロアグレッションやパワハラ、セクハラというのは、男性から女性だけに向けられているものではありません。その逆もしかりです。
そんな現状から、ホリーさんが考える具体的な組織のサステナブル、多様性&包摂性への道筋とはどのようなものでしょうか。
次ページ 日本の女性、そして男性への具体的なアドバイス
著者プロフィール
- 山本彌生
企画プロジェクト&視察コーディネーション会社PDX COORDINATOR代表。東京都出身。米国留学後、外資系証券会社等を経てNYと東京にNPOを設立。2002年に当社起業。メディア・ビジネス・行政・学術・通訳の5分野を循環させる「独自のビジネスモデル」を構築。ビジネスを超えた "持続可能な" 関係作りに重きを置いている。日系メディア上のポートランド撮影は当社制作が多く、また業務提携先は多岐にわたる。
Facebook:Yayoi O. Yamamoto
Instagram:PDX_Coordinator
協働著作『プレイス・ブランディング』(有斐閣)