南米街角クラブ
【追悼】窮乏惑星からやってきた世紀末の女、エルザ・ソアレス
2022年1月20日15時45分。
ブラジルを代表する歌手、エルザ・ソアレスが旅立った。
91歳、健康状態も良かった彼女は、やってきた迎えを受け入れるように、購入して間もないマンションの最上階にある一室で自然死したのだった。
エルザの死は速報で伝えられ、ソーシャルメディアはその話題で埋め尽くされた。
エルザはサンバで、ボサノヴァで、ロックでヒップホップでジャズである。
70年にも及ぶキャリアは、海を越え、ジャンルを超え、変化するブラジル音楽シーンを跨ぎ、多くの人々を魅了した。
そして「女性」「黒人」「貧困層生まれ」のアイコンとして愛された。
エルザの歌を聴いたら、彼女のパワーにきっと魅了されるだろう。
今日はエルザの人生を振り返りながら、彼女にとってもブラジルにとっても強い意味のある楽曲を紹介したい。
|"ソアレス"の名
1930年1月20日、リオデジャネイロにあるスラムの丘に生まれた10人兄弟の1人、エルザ。
一家は非常に貧しく、空腹に苦しむことも多かったとインタビューで話す。
ギターを弾くことが好きだった父の影響を受け、水が入った一斗缶を頭に乗せて丘の麓から家まで運ぶ際、無意識に歌うようになっていた。
12歳で強制的に父親の知り合いである歳の離れたルージス・アントニオ・ソアレスと結婚させられる。
勉強することも許されず、13歳で初出産、15歳で2人目を出産するが、2人とも栄養失調により亡くなってしまう。
その後、再び子供が産まれてから夫は結核で働けなくなり、エルザは掃除婦や石鹸工場で働いて家計を支えた。
18歳で正式に結婚。ソアレスの名を名乗るようになる。
夫は再び結核にかかり亡くなり、21歳で未亡人となった。
のちに、エルザはこの結婚生活で夫から身体的/性的暴力を受けていたことをインタビューで語っている。
|窮乏惑星から現れた新星
1953年、新人歌手発掘ラジオ番組Radio Tupiに出演。
有名になりたかった訳ではなく、子供にご飯を食べさせるべく賞金欲しさに黙って応募したと言う。
体重32kg、体に合っていない借り物の洋服とサンダル、髪を2つに結わって現れたエルザを司会者のアリ・バホーゾ(あの名曲「ブラジルの水彩画」の作曲者)は冷たくあしらった。
「君はどこの惑星から来たんだい?」
「あなたと同じ星ですよ、セニョール・アリ。窮乏惑星です。」
エルザが歌い始めた瞬間、会場は騒然。
曲を半分歌い切った時点でアリはエルザを抱擁した。
アリはのちに「エルザが歌い出した瞬間、ブラジルの星が生まれたことを確信した。」と話している。
もちろんエルザは最高点を獲得した。
その後、当時流行していたビッグバンドスタイルのダンスパーティーにて歌手として活躍。
これらの"ハコバン"はサンバだけでなくジャズやボレロなどもレパートリーとしており、エルザはこの時点で彼女の最大の武器であるスキャットとダミ声を完ぺきにマスターしていた。
1959年ラジオ局Vera Cruzに雇用され、当時歌っていたスタイルで初アルバムをリリースする。
ボサノヴァの流行とともに国際フェスティバルや、60年代には国内の音楽フェスティバルで注目を集めるが、それでも、彼女は黒人女性であることを理由に一部の音楽業界で差別されることもあった。
|国民的サッカー選手とのスキャンダル
1962年、チリで開催されたワールドカップで歌うように招待されたエルザは、ここでブラジル代表選手マネ・ガリンシャと出会う。
この大会はガリンシャのためにあったと言われる程、彼の活躍は評価され、ブラジル人に最も愛される選手の一人となった。
激しく惹かれ合った二人は交際を始めるが、ガリンシャは既婚者だったため、スキャンダルとしてスクープされてしまう。
ペレと並ぶ程の人気選手ガリンシャの結婚生活を破綻させたとしてエルザは批判されるが、2人は交際を続け、ガリンシャは離婚し、正式に夫婦となった。
ガリンシャは膝の痛みを感じ、64年に手術。
更にスキャンダルへの批判とアルコールの過剰摂取で心身共にコンディションが悪かったが、前妻との子供の養育費を払うためピッチに立ち続けた。
69年、ガリンシャは交通事故を起こし、同乗していたエルザの母が亡くなり、精神的不安定が悪化。
完全なるアルコール中毒になったガリンシャは家庭内暴力を起こすようになる。
72年引退、82年エルザと離婚。
83年1月20日、肝硬変で49歳で亡くなった。
時を経て、エルザは愛するガリンシャから受けた苦しみを歌に残すことにした。
2015年に発表した「Maria da Vila Matilde」は、ガリンシャから受けていた家庭内暴力について語った曲だ。
曲の中で歌われる「180に電話する」とは、女性相談窓口の電話番号で、この曲はフェミニストムーブメントの重要な作品となった。
それでもエルザは「まだ彼の夢をみる。人生最大の愛する人はガリンシャだった。」と語っている。
|最愛の人と息子の死
エルザとガリンシャの結婚生活は終わっていたものの、彼の死はエルザを苦しめ、酷く落ち込んだ。
更には1986年、ガリンシャとの息子が9歳で交通事故死、エルザは極度の鬱状態からドラッグに手を染める。
この頃、ブラジルのロック歌手であるロボァンやカズーザに呼ばれてゲストヴォーカルとして録音を残しながらも、海外公演を続けて現実逃避をしながら、次第に塞ぎこむようになってしまう。
エルザが"完全に"復活したと思われるのは、2000年代になってからだ。
2002年、47歳年下のミュージシャン、アンデルソン・ルガォンと恋仲になり、彼からリオのヒップホップやエレクトリックミュージックの影響を受ける。
同年リリースされたアルバムでエルザは新しい世界観を見せつけ、ラップとスクラッチを取り入れた「A Carne」では「市場で一番安い肉は黒い肉!」と叫び、社会における黒人の立ち位置を表現して話題を呼んだ。
|死ぬまで歌い続けた世紀末の女
2016年発表の、『A Mulher do Fim do Mundo』ではラテングラミー賞ブラジル音楽部門で最高位を受賞。
若いミュージシャンたちと共に新しいサウンドを探したこの作品は、バンドが変わってもエルザの声が群を抜いていることを再確認させてくれた。
楽曲の中で「私は世紀末の女。死ぬまで歌い続ける。」と歌った通り、エルザは亡くなるまで歌い続けることになる。
最後にリリースしたアルバム『Planeta fome』は、あのラジオ番組でエルザが答えた"窮乏惑星"をタイトルにした。
収録された曲の中には、ブラジルの軍事独裁政権時代にゴンザギーニャによって作曲された反軍事政権を代表する楽曲「Comportamento Geral」がある。
実は、エルザとガリンシャ一家も軍部からの酷い迫害を受け、ガリンシャの精神状態も考え、公演先のローマに一時的に引っ越すことになった経験があった。
同じくローマに亡命していたシコ・ブアルキと当時の妻マリエッタの助けを受けながら、エルザは歌い続け家族を支えた。
この際にエルザは欧州ツアー中のアメリカ人歌手エラ・フィッツジェラルドと出会い、エラが体調不良の際に代役を務めた事もある。
|エルザ、大往生を遂げる
2022年1月20日、エルザはいつもと変りない日を過ごしていた。
数日前に新作DVDの収録したこともあり、疲れている様子で少し休ませてほしいと家族とマネージャーに告げる。
暫くすると、エルザは「私、死ぬと思うわ。」と言葉を残し、眠るように亡くなった。
91歳、多くの苦しみの中生きてきた彼女の最後は、苦しみなく幕を閉じた。
偶然なのか、39年前のこの日は最愛の人ガリンシャが旅立った日だった。
エルザの死後、ミュージシャンを始め、多くのファンや関係者が追悼の意を表した。
大手ニュースサイトや新聞の一面もエルザ一色だ。
リオデジャネイロ市や、サンバチーム"モシダージ・インデペンデンチ・ジ・パドレ・ミゲル"(70年代にエルザが所属し、2020年には彼女をカーニヴァルのテーマに取り上げた)も3日間の喪に服す事を発表した。
エルザは偉大な歌手であるだけでなく、女性であり、黒人であり、貧困家庭に生まれたことを現実的に受け止め、全力で訴えてきた。
地球が"人種差別がなく、空腹で苦しむ子供がいない惑星"になるように、エルザは天国から見守っているだろう。
著者プロフィール
- 島田愛加
音楽家。ボサノヴァに心奪われ2014年よりサンパウロ州在住。同州立タトゥイ音楽院ブラジル音楽/Jazz科卒業。在学中に出会った南米各国からの留学生の影響で、今ではすっかり南米の虜に。ブラジルを中心に街角で起こっている出来事をありのままにお伝えします。2020年1月から11月までプロジェクトのためペルー共和国の首都リマに滞在。
Webサイト:https://lit.link/aikashimada
Twitter: @aika_shimada