南仏の国際機関から考える
留学不要論~マイノリティのススメ
最近、SNS界隈では「今の時代、留学はもはや不要」という論に対して、色々な立場の方が「賛成!」「そんなはずはない」など色々なコメントをされているのを南仏プロヴァンスの田舎に住みながら眺めております。誠に便利な時代です。
大別すると、当然のように留学経験された方の多くは大体「留学賛成」又は少なくとも「留学には価値がある」というポジションにいて、「そうだ、留学なんて不要だ!無駄だ!」というサイドの方は、留学未経験の方が多いように思われます。人間、誰しも自分のした事には愛着なり、肯定感を持つものですので、当然なのでしょうが。
さて、本日は都合3回の「留学」をした経験者側から、このテーマの派生で「マイノリティの大切さ」を書いてみたいと思います。
私自身は、10代終わりに米国の大学へ短期留学、30代頭に香港とスペインのビジネススクールに留学しました。
米国留学では、恥ずかしい話ですが授業のタフさについていけず、もっぱら「寮」で米国人新入生達と遊んで暮らしていました。この時、痛烈に感じたことが「自分はマイノリティである(というか唯一の日本人)」という意識でした。それまでの日本での生活の中で、無論出身地が異なる事や、出身学校別コミュニティ、所属別コミュニティの差異から発生する「マジョリティ・マイノリティ」が区別される場はあったかと思いますが、少なくとも「母国語も、宗教観も、文化も、見てきたTVも、四季の感覚も含めて自分はここに居る大多数の人と共通項がない=圧倒的マイノリティである」と感じた事は初めてであり、そしてより重要なのは「自分以外の殆どに共通項があるように思える=自分以外がマジョリティである」という認識をもつ環境でした。
次の留学は香港でしたが、ここではじめて本日の記事の骨子である「全員がマイノリティである環境」に出会いました。これは意図的に、香港科技大学ビジネススクールが、国際性と多様性を強化するために打ち出した方針の結果、学生が様々な国の出身者で構成されており、どこか特定の国出身者が過半数(マジョリティ)を占めなかった事が、非常に大きな特徴でした。
3度目はその後のスペインはバルセロナのスクールなのですが、こちらは欧州出身の学生が多いとはいえ、スペイン国籍がやはり過半数以下に押さえられており、無論スペインの歴史的背景から中南米出身学生が多かった事もありますが、ここでも「マジョリティが居ない=全員がマイノリティである」事が特徴でした。
では、なぜ「全員がマイノリティである」事が良いと考えるか。それは、単純化して言えば、「マイノリティ」側に居る人間は(自分事であるので)他のマイノリティの意見を尊重する事が出来、その組織・グループ・集団内にマジョリティが居ない事=マイノリティの集合体である事は、結果的にその組織に個々の多様性を尊重するカルチャーを創ることが出来るからだと考えます。(なお、多様性を尊重するカルチャーの何が良いのかという議論は割愛します。少なくとも、現代経営学では、多様性(Diversity)は組織を強くしそのミッション遂行のアウトプットの質を高めるとされています)
こうした理由から、私は「全員がマイノリティである」環境に自身を置くことが出来た事は大変恵まれていたと思っておりますし、その「重要性」に気がつくことが出来たことは何よりも留学したことが大きなきっかけであったと思っております。
さて、これを現在私の居る環境(欧州・ITER機構)に当てはめますと、極めて大きな相似形を見ることができます。
欧州はその歴史的源流をローマに持つ点では「同じ」だという議論もあるかもしれませんが、ご存知のように「マジョリティ」を占める国はありません。人口も経済力も言語的にも欧州の過半数を占める国はどこにもなく、あくまでそれぞれが「尊重されたマイノリティ」であります。無論、国際政治の世界ではアジェンダ毎に組む相手を変え、結果的に連帯・連合する過半数が生まれるわけですが、ベースには、マイノリティを尊重する「集団としてのカルチャー」がしっかりと根づいていると思います。
また、所属する国際機関においても、その職員構成においては、特定の国籍のスタッフが「過半数」を占めることはなく、まさに多国籍・多様性のある職場であり、それがITER計画というチャレンジングな目標へ向かう良い組織文化となっていると感じます。
もし機会があるのであれば、積極的に「自分自身がマイノリティになり、かつマジョリティの居ない場所」へチャレンジされることをオススメしたいと思います。