Fair Dinkum フェアディンカム・オーストラリア
シドニーを襲った衝撃の一夜、日本軍 特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃
それは、1942年5月31日の夜半のことだった。
「シドニー湾を煌々と照らすサーチライトの明かりと共に、一斉に鳴り響いたサイレンの音で目が覚めた。子供だった私は、何が起きているのかと怖くて、布団をかぶって耳をふさいだ───」
そう話してくれたのは、シドニー湾北側の高級住宅街モスマンで、代々暮らしてきたというご婦人だ。
日本軍によるオーストラリア北部への空襲が開始されてから、3ヶ月半ほど経ったこの日、シドニー湾に日本軍の特殊潜航艇3隻が侵入。この事実は、後日このことを知ったシドニー市民のみならず、オーストラリアに衝撃を与えた。
シドニー湾攻撃70周年に合わせ、2012年にモスマンの自治体が開催したエキシビション「ATTACK: Japanese midget submarines in Sydney Harbour 展」で出会ったご婦人は、まさに、この出来事を経験した貴重な証言者の一人だった。モスマンは、当時、対潜戦の銃弾や破片が飛んできたシドニー湾沿いの町だ。
日本では、戦史について造詣の深い人でもない限り、ほとんどの人が知らない「日本軍特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃」。オーストラリア側に残る記録から、当時の様子を書き起こし、79年前の今日起こった日豪にとって重要な歴史の1ページの顛末を記しておこうと思う。
不意のシドニー湾攻撃
5月30日、特殊潜航艇「甲標的」を1隻ずつ搭載した3隻の潜水艦が、シドニー沖に到着。翌日の31日、日が落ち、辺りがすっかり暗くなった頃を見計らって、特殊潜航艇によるシドニー湾内へ侵入を試みた。
特殊潜航艇3隻のうち1隻(伊27)は、20:01に湾を航行するフェリーの往来に紛れて侵入したが、20:15に港湾監視員に発見され、港湾入口のパイル灯台に衝突。反転した際にスクリューが防潜網に絡まって逃げられなくなり、自爆した。
残る2隻のうち1隻(伊24)は21:48に、フェリーの出入りにぴたりと合わせて密かに侵入。22:52、標的としていた米国海軍の重巡洋艦「シカゴ」に接近したところで、サーチライト係によって発見され、砲撃されたものの、シカゴに向けて魚雷2本を発射。しかし、魚雷は2本ともはずれ、そのうち1本はオーストラリア海軍の宿泊艦クッタバルを爆破、沈没させた。この際に、船内に寝泊まりしていた21名の水兵が死亡している。
伊24とほぼ同時に侵入したとみられる最後の1隻(伊22)は、シカゴの伊24への砲撃に紛れ、哨戒艇や駆潜艇の攻撃をかわしながら、シカゴを狙うが、故障で魚雷を発射することができず、同艦へ体当たりする特攻攻撃を実行。しかし、衝突の衝撃が緩く、魚雷は爆発しなかった。そして、豪海軍の爆雷攻撃を受けて、(冒頭に記載した)モスマンにある小さな湾「テイラーズベイ」で動けなくなったため、乗組員は艦内でお互いの拳銃で自決...
この間に、標的を外しはしたものの、いくばくかのダメージを与えた伊24は、湾外へと脱出を図った。母艦は、沖合で6月3日明け方まで3隻の帰還を待っていたが、いずれも会同地点に現れず、搭乗員6名は全員「戦死」と判断された。
一夜明けたシドニーは、騒然となった。そして、湾内で自爆した1隻と特攻攻撃不発に終わった1隻を引き上げる作業に取り掛かり、湾外へ逃げた1隻を捜索したが、発見できなかった。
敵国の特殊潜航艇乗組員を海軍葬に
シドニー湾内に沈んだ特殊潜航艇2隻は、引き上げられ、艦内で死亡した4名(各艦2名ずつ)の乗組員を海軍葬にて弔うと発表された。しかし、日本軍によるオーストラリア本土北部への空襲が激化するなか、国民からは反対意見が噴出。
しかし、G. C. ミュアヘッド・グールド少将は、こうした意見を一蹴し、正式な海軍葬が執り行われ、火葬された遺骨は日本へ届けられることとなった。この件に関し、グールド少将は、ラジオ出演で次のように述べたという。
このような勇敢な人々に対して、十分な栄誉を払うべきではないでしょうか。...彼らの勇気は、ある国のみに限られた所有物でもなければ伝統でもありません。われわれの国々の勇者たちにも、敵にも共通するものであり、戦争やその結果がどれほど悲惨であろうとも、認識され世界中で賛美される勇気です。彼らは最高の愛国者たちでした。彼らの千分の一の犠牲を払う準備がある者が、我々の中に幾人いるでしょうか。...(参照)
この時、火葬され、日本へと戻った4名の乗組員のひとり、松尾敬宇艇長(後に二階級特進により最終階級は中佐)の母・まつ枝さんは、オーストラリア側の招待もあり、1968年に渡豪が実現。現地で手厚い歓迎を受けたという。(松尾まつ枝さん来豪の様子を撮影したビデオがここで見られます)
64年を経て発見された最後の1隻「伊24」
唯一、シドニー湾外へ脱出した伊24は、母艦との会同地点に現れず、戦死とされたが、オーストラリア側でも彼らがどこへ逃げたのか、追跡することができなかった。
「豪戦史上、最大のミステリー」とも言われた伊24の失踪───
行方不明のまま、長い月日が流れた64年後の2006年11月、シドニー北部沿岸で、地元ダイバーが一隻の沈没船らしきものを発見した。
報告を受けたニューサウスウェールズ州政府と豪海軍による調査によって、1942年にシドニー湾を攻撃し、湾外脱出したまま行方不明となっていた日本軍の特殊潜航艇であることが判明。発見時の映像がTV番組でスクープとして放送されたことから、オーストラリア国内で大きな話題となった。
ニューサウスウェールズ州政府は、引き上げは行わないとしたが、一般ダイバーなどが近づき、ダメージを与えてしまうことがないよう、この一帯を歴史遺産とし、保護区に指定。この発見から約半年後の2007年8月6日、日本から乗組員の親族らも出席し、シドニー湾で日豪参加の大規模な追悼慰霊祭が行われた。(参照)
また、シドニー湾攻撃から70周年の区切りとなる2012年には、伊24が発見された場所に最も近い陸地側の海を見渡す丘の上に、乗組員2名の名と共に特殊潜航艇が眠っていることを示すプレートを設置。豪海軍歴史センター所長や在シドニー総領事、地元民らが出席し、州政府と地元自治体による追悼式典が行われた。
2名の乗組員を乗せた伊24は、今もシドニー北部の沖合い5キロメートルほどの海底に眠っている。
1968年に渡豪した松尾中佐の母・まつ枝さんは、帰国の日に「帰りたくない」ともらしていたという。その思いを綴ったまつ枝さんの歌(句)がある。
『 うしろがみ引かるる思ひこの国に あまた勇士の散りし地なれば 』
※日本では特殊潜航艇の名称をそれぞれ乗組員の苗字から「〇〇 艇」としていることが多いようですが、オーストラリアでは、それぞれの搭載艦 I-22, I-24, I-27からそのまま引用していることが多いため、「I」を「伊」に置き換えて記載しています。
【関連リンク】
▼特殊潜航艇:豪日研究プロジェクト(AJRP), オーストラリア戦争記念館
▼シドニーのクッタバル号と特殊潜航艇 - 「私たちは忘れません。」:在シドニー総領事通信
▼戦争の遺物とその移動がもたらしたもの 一日本軍特殊潜航艇シ ドニー湾攻撃のその後:京都大学人文科学研究所
【参考文献】松尾中佐とその母 ~日豪友好の架け橋(あきつ出版)
著者プロフィール
- 平野美紀
6年半暮らしたロンドンからシドニーへ移住。在英時代より雑誌への執筆を開始し、渡豪後は旅行を中心にジャーナリスト/ライターとして各種メディアへの執筆及びラジオやテレビへレポート出演する傍ら、情報サイト「オーストラリア NOW!」 の運営や取材撮影メディアコーディネーターもこなす。豪野生動物関連資格保有。在豪23年目。
Twitter:@mikihirano
個人ブログ On Time:http://tabimag.com/blog/
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