サッカーを食べ、サッカーを飲み、サッカーと寝る国より
「中止するべきだった」東京五輪開催は決定事項、ブラジルメディアの批判は過去形に
◉立ち位置の違いから異なる意見
海外メディアの中止にすべきだという声と、海外の選手たちからオリンピックの開催について、懐疑的な声があがらない原因について考えてみる。
一つ目はホスト国であるかどうか、海外からオリンピックに参加するかという立位置の違いだろう。
オリンピックの開催前、中、後の期間を生活し続ける日本人と、オリンピック期間中に来日し終了後に帰国する海外のメディア。
自国開催でない側は、現地世論やIOCとのやり取り、関係各所とのしがらみ等が見えない分、好きに物を言える立場にいる。
選手にしても、ホスト国の選手は自分のプレーだけでなく、関係者や観戦にくる自国民の事まで幅広く考える機会がある。
しかし、海外から参加する選手の場合、特に自国からの応援がこないとなっているこの状況では、ほぼ自分のプレーに主に意識が向くの当然の流れなのかもしれない。(開催国にリスペクトがないという訳ではない)
また、選手目線でいうと、この状況でも大会が開催されるのであれば、無観客でも有観客でもそこまで大きな問題ではないのかもしれない。
二つ目は選手と運営側では背負っているモノが違うという事である。
どちらが上で下とかいう事ではない。
演者と演者をサポートする立場で、判断軸が違うのだ。
選手目線で言えば、オリンピックに出場できるというチャンスは一生のうちにそう何回もあるものでもない。
殆どの選手が幼少期よりトレーニングを行い、膨大な時間と労力、金銭を費やしてそのチャンスを掴むポジションまできた筈だ。
そして今がピークのコンディションである。
今回既に2020年が延期になっての2021年開催である。
中止になって2024年開催となってしまった場合に出場できる補償などはない。
そう考えると、無観客でも良いから勝負をしたい筈だ。
自分の人生を賭けてきたきたもので、思い切りぶつかり結果を受け止める。
試合結果は自分の努力に対しての結果なのだ。
これに対して運営側は全く別の問題がつきまとう。
選手の気持ちなどここで挙げなくても百も承知しているはずだ。
しかし、運営側には選手だけでなく、関係者や観客、開催国の状態等、挙げていけばキリがない関係各所に対しての安心、安全な開催を義務づけられている。
そしてその責任も同時に背負っている。
にも関わらず、結果が自分の努力の範疇になく、第三者や運的要素に大きく左右されてしまう。
その様な状態では、本当に開催するべきなのか、中止にすべきなのかの堂々巡りを繰り返すのも頷ける。
◉開催は本当にできないのか?
筆者は開催できる部分だけでも開催すべきだと考えている。
先週行われた、サッカーのヨーロッパチャンピオンズリーグの決勝も、1万人以上の観客を入れて開催された。
日本国内でに目を向けても、Jリーグやプロ野球、バスケットでは、既に有観客で開催している。
海外からの一般客が来れない状況であり、開催地域が限定されているオリンピックであれば十分に開催可能なのではないだろうか。
ネガティブな意見は大きく取り上げられやすい。
中止すべきだと叫ぶのは簡単ではあるが、中止にした場合にできる代案をどのメディアも出さない状態でいる。
一部有観客、無観客、一部の種目のみ開催等、何か方法はあるだろう。
スポーツは命より大事なのか。
非常に難しい議題である。
命をかけて競技に専念してきた選手、関係者もいるのも事実だ。
そして時に、他人の命を救う、勇気を与えてくれる、人生を変えてくれる様な試合を見せてくれるのもスポーツの持つ一つの力でもあるのだ。
開催に向けて、今一番大変な時期を過ごしているであろう大会関係者、運営スタッフにエールを送りたい。
<了>
著者プロフィール
- 古庄亨
ブラジル・サンパウロ在住。日本・ブラジル・タイの3ヶ国で、2010年までフットサル選手としてプレー。2011年より5年間、都内スポーツマネージメント会社勤務。2016年ブラジルに渡り翌年現地にて起業。サッカーを中心にスポーツ・教育関連事業で活動中。
Webサイト: アレグリアスポーツアカデミー・サンパウロ
Twitter: @toru_furusho