コラム

カトリック教会をよみがえらせた法王フランシスコの慈悲

2016年04月04日(月)16時30分

 例えば、『ヨハネによる福音書』には、姦通の罪をおかした女性が登場する。モーゼの戒律では、石打ち刑で処刑される重罪だ。キリストは、女性をまさに石打ちにしようとする律法学者やファリサイ派に対して、「あなたたちのなかで、罪を犯したことのない者が、最初に石を投げなさい」と言った。全員がそこを 去り、キリストは「私もあなたをとがめない。立ち去りなさい。そして、二度と罪をおかさないように」と女に伝えた。キリストの慈悲を示す有名な逸話だ。

 フランシスコは、律法学者やファリサイ派が女を連れてきたのは、キリストへの「テストであり、罠」だったと説明する。「キリストが法にしたがって『石を投げなさい』と言えば、(キリストの信奉者たちに)『お前たちの主は良心的だというが、この気の毒な女に対する仕打ちを見てみろ』と言えるし、『女を許しなさい』と言えば、『法に従わない』と責めることができる。彼ら(律法学者やファリサイ派)は、この女性のことなどは気にもしていなかったし、姦淫の罪すら気にはしていなかった。たぶん、彼らのなかには自分自身が姦淫をおかした者がいただろう」と。一人きりでこの女の心に語りかけたいと考えたキリストは、「あなたたちのなかで、罪を犯したことのない者が、最初に石を投げなさい」と言ったのだ。

 最近、日本で話題になっている不倫や経歴詐称のニュースとそれに対する人々のコメントを目にするたび、モヤモヤした気分になっていたのだが、この本を読んでいる最中に「ああ、私が感じていたのはこれだった」と、霧が晴れたような気分になった。

 フランシスコを取材した作者が書いているように、現在私たちが住んでいる社会には、「間違いをおかすのはいつも他人」で「不道徳なのもいつも他人」、「常に他人のせいであり、自分には責任がない」という態度が蔓延している。「(なにかあれば)すぐに他人の落ち度をとがめ、人を許容したくない態度。人を簡単に糾弾するのに、人の苦悩に対しては深い同情で頭を垂れることがない」という雰囲気には、誰しも心当たりがあるだろう。

 不倫や経歴詐称のスキャンダルを起こした有名人を公の場で叩いている人は、『ヨハネによる福音書』で姦淫をおかした女性に石を投げようとしている人たちと同じだと思う。「罪をおかしたことがない者だけが石を投げなさい」と言われたら、誰も投げられはしないはずだ。「私は不倫なんかしていない」とか「経歴詐称なんかしたことはない」と反論する人がいるかもしれないが、「罪」とはそういうことに限らない。見栄を張ったり、失敗をごまかしたり、他人の悪口を言ったり、ちょっとした嘘をついたりしたことは、誰にだってあるはずだ。

【参考記事】ローマ法王もたじろぐ「反キリスト」中国の教会弾圧

 フランシスコは、「Mercy[慈悲]」の解釈だけでなく、「Confession[告解、ゆるしの秘跡(ひせき)]」の意味と意義についても語る。カトリックにおけるConfessio(ラテン語)は、洗礼を受けた信者が、聖職者に罪を告白することで、神からのゆるしと和解を得る信仰儀礼である。なぜそれが重要かというと、「われわれは社会的な存在であり、ゆるしには社会的な意味がある。私のおかした罪は、人類そのもの、兄弟姉妹、社会全体を傷つける。聖職者への告解は、自分の人生を他人の心と手にゆだねること」だからなのだ。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:ルーマニア大統領選、親ロ極右候補躍進でT

ビジネス

戒厳令騒動で「コリアディスカウント」一段と、韓国投

ビジネス

JAM、25年春闘で過去最大のベア要求へ 月額1万

ワールド

ウクライナ終戦へ領土割譲やNATO加盟断念、トラン
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:サステナブルな未来へ 11の地域の挑戦
特集:サステナブルな未来へ 11の地域の挑戦
2024年12月10日号(12/ 3発売)

地域から地球を救う11のチャレンジと、JO1のメンバーが語る「環境のためできること」

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    健康体の40代男性が突然「心筋梗塞」に...マラソンや筋トレなどハードトレーニングをする人が「陥るワナ」とは
  • 2
    NewJeansの契約解除はミン・ヒジンの指示? 投資説など次々と明るみにされた元代表の疑惑
  • 3
    【クイズ】核戦争が起きたときに世界で1番「飢えない国」はどこ?
  • 4
    JO1が表紙を飾る『ニューズウィーク日本版12月10日号…
  • 5
    混乱続く兵庫県知事選、結局SNSが「真実」を映したの…
  • 6
    【クイズ】世界で1番「IQ(知能指数)が高い国」はど…
  • 7
    NATO、ウクライナに「10万人の平和維持部隊」派遣計…
  • 8
    健康を保つための「食べ物」や「食べ方」はあります…
  • 9
    韓国ユン大統領、突然の戒厳令発表 国会が解除要求…
  • 10
    シリア反政府勢力がロシア製の貴重なパーンツィリ防…
  • 1
    BMI改善も可能? リンゴ酢の潜在力を示す研究結果
  • 2
    エリザベス女王はメーガン妃を本当はどう思っていたのか?
  • 3
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 4
    リュックサックが更年期に大きな効果あり...軍隊式ト…
  • 5
    ウクライナ前線での試験運用にも成功、戦争を変える…
  • 6
    健康体の40代男性が突然「心筋梗塞」に...マラソンや…
  • 7
    メーガン妃の支持率がさらに低下...「イギリス王室で…
  • 8
    「時間制限食(TRE)」で脂肪はラクに落ちる...血糖…
  • 9
    NewJeansの契約解除はミン・ヒジンの指示? 投資説な…
  • 10
    黒煙が夜空にとめどなく...ロシアのミサイル工場がウ…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 4
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 5
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 6
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 7
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 8
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 9
    ロシア陣地で大胆攻撃、集中砲火にも屈せず...M2ブラ…
  • 10
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story