コラム

カイコからコロナワクチンも? 栄枯盛衰の「シルク岡谷」で伝統産業の未来に触れる

2020年07月10日(金)16時10分

◆世界一からの栄枯盛衰

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旧山上宮坂製糸所跡

岡谷はかつて製糸業で世界をリードした「糸都(しと)」である。製糸業とは、蚕蛾(かいこが)の繭(まゆ)から糸を取り出し、生糸(絹糸=シルク)を作り出す産業だ。その技術と文明は、古代中国からシルクロードを通って全世界に伝わった。日本でも古くから生糸が利用されてきたが、特に明治から昭初初期にかけての主要輸出品目として、文明開化と富国強兵の時代を支えた。中でも岡谷は当時の製糸業のメッカで、最盛期には生糸全国生産量の25%を占め、日本一、いや、世界一の"シルク岡谷"であった。往時の写真を見ると、町じゅうに製糸工場と4階建ての巨大な繭倉庫が立ち並んでいる。最多で200軒余りあった製糸工場には、全国から工女さんが集まり、町は大変なにぎわいを見せていたそうだ。

しかし、戦中戦後にかけて製糸業はすっかり廃れてしまい、現在残る製糸工場は資料館を兼ねる「宮坂製糸所」1軒だけだ。我々戦後世代にとっての諏訪地域は、むしろ「日本のスイス」と呼ばれた戦後の精密機械工業のイメージの方が強いかもしれない。写真家の僕にとっては、とりわけ「カメラの聖地」だという思い入れがある。地元発祥のヤシカ、チノンのほか、オリンパスの諏訪工場もあった。特に僕にとっては、写真を始めた当初から現在まで愛用している「コンタックス」ブランドの一眼レフを生産していたヤシカ(後に京セラに吸収合併)への思いれが強い。コンタックスは今もセラミック製品の工場として継続しているヤシカ(京セラ)岡谷工場で作られていた。

そのコンタックスも、京セラのカメラ事業撤退とともに2005年に消滅。製糸業と同じく、当地のカメラ製造も今や過去の遺産となってしまった。世界一の「糸都」から精密機械工業で繋ぎ、それも下降線をたどった歴史を振り返れば、現在の人通りの少ない町の様相には、ただならぬ哀愁を感じる。ちなみに、旧コンタックス工場は、かつての片倉製糸工場の跡地に建てられたものである。片倉製糸は岡谷の発祥で、世界遺産の富岡製糸場(群馬県富岡市)も持っていた当時の製糸最大手。やがて多角経営の大財閥に発展したが、戦後の財閥解体と共に製糸部門は衰退し、後継企業の片倉工業は現在、不動産運営と自動車部品等の製造が中心。本社は東京にある。

そんな栄枯盛衰を経た岡谷には、今も製糸場跡や繭倉庫、工場に水を送ったタンクなど糸都の遺産が点々と残っている。僕たちは今回、中心市街地の手前に差し掛かったところで、重厚な木造の門構えの「旧山上(やまじょう)宮坂製糸所」に立ち寄った。明治7年から戦後復興期まで長きにわたって操業した中規模工場の跡で、石造りの事務所と木造の工場・住居がひっそりと並んでいる。工場の中庭には、白いヒナギクがびっしりと咲き、風に揺れていた。かつてここで働いていた工女さんたちの魂のゆらめきを感じるような、不思議な空間だった。

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旧山上宮坂製糸所跡には、たくさんのヒナギクの花が風に揺れていた

◆女性が輝く「最後の製糸工場」で見えた希望

ここまで僕は、かつて製糸工場で働いていた女性たちを「工女さん」と書いてきた。『女工哀史』のイメージで彼女たちを捉えている向きには、違和感があるかもしれない。しかし、特に岡谷や諏訪では、製糸工場で働く女性たちをもっぱら「工女さん」と言い習わしてきた。それに対して「女工」は紡績工場(綿糸を作る工場)で働く人たちを指す言葉だと認識されている。実際、『女工哀史』は紡績工場で働く女性たちのルポルタージュであり、飛騨から岡谷や諏訪の製糸工場へ出稼ぎに行った女性たちを描いた『あゝ野麦峠』としばしば混同される。ちなみに、山本茂実のノンフィクションである『あゝ野麦峠」の副題は、「ある製糸<工女>哀史」である(< >筆者)。

日本の近代化の原動力となった製糸業を支えるためには、大量の労働力が必要とされた。岡谷の製糸業では独自開発の「諏訪式繰糸機」に代表される機械製糸が行われてきた(岡谷では製糸業を営むことを「キカイをやる」と言ったそうだ)が、繭から糸を取り出す繊細な作業には人手、それも細やかな女性の手が不可欠である。業界では、「女性にしかできない細かい作業」だとされており、実際、現場の作業に従事するのはほぼ100%が女性、かつてはそれも10代の若い人たちが中心であった。

ここに現代的価値観を当てはめれば、未成年の"女子"に過酷な労働を強いるブラックな職場だと捉えられるかもしれない。しかし、適材適所ということで言えば、製糸工場はむしろポジティブな意味で「女性が輝く職場」であり、中でも特に繊細な手を持つ日本女性の独壇場であったことは、1909年に日本が世界一の生糸輸出国となったことで証明されている。日本の近代化を支えたのは紛れもなく当時の若い女性たちであり、そのこと自体は、女性や若者の力を活かせているとは言い難い今の日本は見習うべきだと思う。

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岡谷に唯一残る宮坂製糸所。今も現場に立つのは女性たちだ

製糸工場が女性の職場だということは、実際に作業を見れば納得できるだろう。岡谷に唯一残っている「宮坂製糸所」には、蚕糸博物館が併設されており、観覧コースには工場見学も含まれている。そこでは、諏訪式繰糸機の前に立ち、窯で煮られた繭から巧みに糸を取り出す「工女さん」の仕事ぶりが間近で見られる。実は、僕は博物館がリニューアルオープンする直前の2014年にこの宮坂製糸所を取材・見学しているが、その際、宮坂照彦社長(当時)が工女さんたちの働きぶりについて、「男はダメ、昔っから。向かないんですよ。同じことの繰り返しに見えるけれど、扱う繭は毎日違うし、細かな工夫が必要な仕事です」と話していた。

その宮坂さんに今回、見学コースでばったり再会した。ご高齢ながら6年経った今も変わらずお元気そうで、今は現場を退いて会長職に就いているとのこと。そして、製糸業の現状を解説してくれた。少量で泡立ち、肌がつるつるになるシルクソープやランプシェードといった絹糸の新しいニーズが生まれていることや、蚕にクモの遺伝子を組み合わせてより丈夫な糸を作る取り組み、クラゲの遺伝子を入れて「光る絹糸」が開発されたことなど、シルクの話題は尽きない。中でもとりわけ興味深かったのは、九州大学などが、蚕の遺伝子から新型コロナウイルスのワクチンを開発中だという話だ。これがうまくいけば、蚕から生まれた日本の技術が再び世界でメジャーな役割を果たすことになるだろう。

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シルクの未来を熱く語ってくれた宮坂照彦会長

プロフィール

内村コースケ

1970年ビルマ(現ミャンマー)生まれ。外交官だった父の転勤で少年時代をカナダとイギリスで過ごした。早稲田大学第一文学部卒業後、中日新聞の地方支局と社会部で記者を経験。かねてから希望していたカメラマン職に転じ、同東京本社(東京新聞)写真部でアフガン紛争などの撮影に従事した。2005年よりフリーとなり、「書けて撮れる」フォトジャーナリストとして、海外ニュース、帰国子女教育、地方移住、ペット・動物愛護問題などをテーマに執筆・撮影活動をしている。日本写真家協会(JPS)会員

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