「製薬会社は共犯者」元米外交官が語る...60年前シリアで見た薬物依存の若者の記憶
The Drug Victim I Can’t Forget
希望を捨てず 小説のおかげで、悪人が報いを受ける世界を描けるというエスキン OTHO ESKIN
<外交官時代にシリアで目にした薬物の悲劇的影響。80代で作家になったエスキンが3作目の小説でオピオイド危機を取り上げた理由は>
それは「全てが起きた年」だった。1963年、ビートルズが初のアルバムを発表し、マーチン・ルーサー・キング牧師が「私には夢がある」と演説し、ジョン・F・ケネディ米大統領が暗殺された。
米外務省外交局の職員だった私はその年、初めて外国に赴任した。派遣先はシリアの首都ダマスカスだった。
到着した日の混乱は今も覚えている。案内してくれた現地の米大使館職員の男性と、町を見晴らす崖の上で足を止めたとき、全てが一変した。「ここにいるのはまずい」。職員男性がそう叫び、私を引っ張って車に飛び乗った。市内でクーデターが発生し、政府が外出禁止令を即時発動していた。外にいる者は、誰でも銃撃される恐れがあった。車のラジオから流れる一報を、男性は耳にしたのだ。
だが心に付きまとって離れないのは、ダマスカスでの別の事件だ。80代で作家になった私は、とらわれ続けた記憶を小説にすることにもなった。
現地でトラブルに陥った米市民の世話をすることは、大使館員である私の責務の1つだった。ある日、地元の警察署長から刑務所へ呼ばれた。
刑務所として使われていたのは、古代ローマ時代に建てられた要塞だった。目の前の暗がりに、ひどい精神状態の人物がいた。支離滅裂なことを言い、明らかに何らかの薬物の影響下にあった。ごく若いアメリカ人青年だった。
隣国レバノンの首都ベイルートにあるアメリカ系病院から精神科医を手配した。診察結果は、適切な医療措置を受けなければ、拘束され続けた体験から立ち直れないかもしれないというものだった。
シリア当局を説得し、青年をベイルートへ連れて行く許可を得た。出発が迫ったとき、青年の行動はさらにおかしくなった。私一人では危険かもしれない。拘束衣を手に入れ、大使館駐在の米海兵隊員に同行してもらうことにした。
製薬業界に感じる怒り
車の中で、青年と海兵隊員はほぼ同年齢だと、ふと気付いた。親友になれたかもしれないのに、現実の2人は懸け離れた存在で、一方は軍服姿でりりしく、もう一方は錯乱状態だった。ベイルートの病院で診断を受けた青年は、看護師に付き添われて帰国した。
あの後、彼はどうなっただろう? 私はずっとそう考え続けてきた。きちんとした治療を受けたのか。それとも、依存症患者になってしまったのだろうか......。