韓国核武装「890計画」の幻
Nukes in the South, Too?
同年8月頃には、リチャード・スナイダー米駐韓大使が韓国政府を相手に、フランスとの取引を中止するよう説得していた。国際的な再処理施設の設立を、共同で模索するのが最も賢明な策だとの主張だった。だが、韓国側は「学習ツール」としてフランスの施設が欲しいと反発し、スナイダーの発言に「驚いた様子」だったという。
契約解消は「不可能」と主張する韓国は、フランスとの取引を認め、必要に応じて査察を行うようアメリカに求めた。既に75年9月には、韓国中西部の大田で施設の建設が始まっていたとされる。
日本と異なる「差別的」扱いにも韓国はいら立っていた。当時、日本はフランスから、はるかに大規模な再処理施設の導入を進めていた。それなのに、なぜ韓国は駄目なのか。
日本は「DMZに位置していない」と、スナイダーは指摘した。韓国の場合は、米政府は中国やソ連、北朝鮮の反応を考慮する必要があった。
実を結ばなかった野心
米政府は譲らなかった。圧力を強めるなか、フランスとの契約を解消した際にアメリカが提供する用意がある核援助について、韓国が「具体的情報」を求めたのは75年12月頃だ。平和的核協力のために人材を派遣するというのが、米政府の立場だった。
カナダも韓国に対する説得努力を拡大していた。再処理施設を建設しないとの保証がなければ、原子炉は売却できないという主張は、最終的に奏功した。76年1月、両国は合意を締結。その中で、韓国は「再処理施設の取得を進めていない」と保証した。
朴は76年末までに「890」計画を中止したようだが、核兵器・核物質に関する研究はその後も続いたとされる。しかし、核への野心が実を結ぶことはなかった。78年までに、アメリカは韓国への再処理技術の提供を阻止する体制をつくり上げ、韓国は自前の施設を建設するしかなくなった。軍事クーデターで権力を握り、80年に韓国大統領に就任した全斗煥(チョン・ドゥファン)はアメリカの支持を取り付けるため、独自の核・ミサイル開発計画を完全に放棄した。
韓国の核開発問題は81年には沈静化した。同年、米大統領に就任したロナルド・レーガンは、韓国の核研究の民生転換と引き換えに、在韓米軍の規模を維持すると公約した。