『天皇の憂鬱』が解き明かす、象徴天皇をかたちづくった「軽井沢」
昭和六十二(一九八七)年九月、天皇(当時は皇太子)は訪米に先立ってこう述べられた。
「バイニング夫人とお会いするのは九年ぶりになります。(略)思い出としては、いろいろありますが、軽井沢で泊めていただいた三日間が、思い出深いものです」
バイニング夫人とは、昭和二十一年から二十五年まで、当時皇太子だった天皇の家庭教師をつとめた女性である。彼女は『日本での四ケ年――皇太子と私』の中で、〈今年(註・昭和二十四年)の四月以来、殿下の新しい御生活の幅が広められ、私の知っている限りでも、三つの新しい経験をなさいました〉と記している。三つの経験とは、皇太子がGHQのマッカーサーを訪問したこと、軽井沢でバイニング夫人を訪問したこと、西洋の少年と過ごしたことである。
なかでも、バイニング夫人が軽井沢で借りた三井家の別荘に、天皇が三日間宿泊したことはよほど印象的だったようだ。(90~91ページより)
なお、そのことをどう知ったのか、昭和22(1947)年に旧朝香宮の別荘を買い取った西武グループの創業者・堤康次郎は、この別荘を千ヶ滝プリンスホテルとして"提供"したのだという。翌25年から、毎年夏になるとここで過ごされるようになった天皇は、よくバイニング夫人から個人教授を受けるため別荘に招かれた。
このことに関して見逃せないのは、「殿下がバイニング夫人の別荘に泊まって、宿題などをやっていた」姿を目撃していたという学友の織田正雄のことばだ。
「彼女の教えから学んだことは多々あるのですが、なかでもよく覚えているのは昭和二十三年十二月十日に採択された国連の『世界人権宣言』(決議)です。この文面については、非常に熱心にやっていたので、強烈に残っています。
その第一条に、『すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない』と書かれています、バイニング夫人の個人授業にうかがった際にも、私や殿下を前に、熱心にその文面の意味を語っていました。殿下にもっとも伝えたかったことなのではないかと思います」(91~92ページより)
もうひとつ、同じく学友の明石元紹の発言も引用しておきたい。
「バイニング夫人は、禁欲的でとても良心的な人でした。「自分の意思を反映させる」ことを強調していましたが、それを教える授業にこれといった教材はなく、「こういう時、あなたはどうしますか」といった事例を出して話をしました。たとえば、穂積重遠東宮大夫が入院した時です。殿下に『行きましたか』と尋ねました。
『いやまだです』と殿下が答えます。
『なぜ行かないのですか。お世話になっている人のために、行きたいと思うのは誰ですか』
『私です』
『それなら私が行きたいと言うべきではないですか』
こんな感じで、会話の中で気づきを与えるのです」
およそ戦前には想像もつかない教え方に、若き皇太子は戸惑いと共に新鮮な驚きを覚えたことだろう。(92~93ページより)