企画に合うコメントを求めていないか? 在日コリアンの生活史が教えてくれること
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<収容所は「ものすごい面白い」「めっちゃええ」と話す伯母――。何が「本当」なのか、わからなくなった人に気づきを与えてくれる1冊『家(チベ)の歴史を書く』>
取材をする際にいつも気にしてしまうことがある。それは相手の語りの中から、自分が求めている言葉をうまく拾えるかどうかということだ。
毎回お題を決め、それに沿った話を聞き取っていく。悲しい事件や嬉しいこと、人生に関することなど内容はその時その時で変わるが、当事者の言葉を聞き出し、1つの記事の形に仕上げていく。
誰に取材をするか。事前に調べた候補から選ぶ決め手になるのは、いつも「この人はこういう経験をしているから、きっとこんなことを言うだろう」というカンによる確信だ。実際多くの場合、「そうそう、こういう話が聞きたかった」と手応えを得るが、時にまるで予想していなかった展開になることもある。そうなったら果たして相手の言葉を捨てるのか、それとも趣旨に合う形に誘導していくのか。
そんな疑問を抱えている折、『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)と出合った。
著者で神戸大学大学院講師の朴沙羅さんは在日コリアンの父と、日本人の母親を持つ。父方の一家は済州島から大阪にやってきたのだが、朴さんは彼らが「どうやら面白いらしい」ことを、ずっと知っていたという。彼らはどうやって大阪に来て、そのあとどう暮らしてきたか。伯父2名と伯母2名から聞き取り、生活史をまとめた一冊だ。朴さんは親戚たちと過ごした日々のことを、こう振り返っている。
私が大学を卒業する頃まで、父の親戚たちは年に最低三回(正月・祖母の法事・祖父の法事)は集まっていた。いわゆる「祭祀(チェサ)」と言われるものだ。そこでは、伯父や伯母が口角泡を飛ばして、時に他人には理解できないような内容で争う。最終的には殴り合いになることも少なくなかった。
花見をしていても殴り合いになる親戚たちを傍に、弁当から好物のハンバーグを取り出して食べながら「けんかしたらいけないんだよー」と言っていた子供時代の朴さんは、漠然と親戚たちは「1945年までのどこかの時点で日本に来たんだろう」と思っていた。しかし高校時代に伯母から、植民地支配されていた時代に日本に来たものの一度韓国に戻ったこと、1948年に「済州島四・三事件」が起きて再移住したことを聞き、興味を持った。だがその後はすっかり忘れていたり、悩んだりとだいぶ回り道をしてから、インタビューを進めていったと明かす。
四・三事件について語らない伯母
「済州島四・三事件」とは1948年4月3日、アメリカの傀儡の李承晩政権により済州島内で虐殺が起きた事件のこと。1947年から1954年までの間に全島人口の10分の1にあたる2万人から3万人が亡くなったと推定され、韓国の歴史を語る上で外せない悲劇だ。
済州島出身であれば、事件のトラウマを抱えている人は少なくない。実際、朴さんの伯母の配偶者である李延奎(イ・ヨンギュ)さんと伯父の朴誠奎(・ソンギュ)さんは、四・三事件の直前とさなかに、日本に逃げてきたことを告白している。