漢人の天国、少数民族の地獄。「多様な」街 南新疆カシュガルレポート
表立って議論されているのを見たことがないので推測ではあるが、この地域がいわば反テロのために恒常的な戒厳令もしくは非常事態宣言下にあり、社会秩序の維持を目的に国民の人権をはじめとした各種の権利が制限されることもやむなし、といったことなのかもしれない。仮にそうだったとしても、いわば超法規的措置である非常事態宣言などの運用は法治国家においては厳密な監督の上に行われなければならないはずだ。であればその前提をクリアしていないという時点でどう言い訳をしてもアウトだし、そもそもそこまで取り繕う必要性を感じていない可能性のほうが大きいとは思うが。
全体の歪みは辺境に表れる
地理的な僻地であれ、性質の異なる例えば少数民族や信仰もしくは同性愛や障害者であれ、主流から遠く離れたいわば辺境の民ともいえるマイノリティの人々が被る様々な問題は、しばしばそこでしか起こりえない固有のものだと解説されがちだ。例えば今回のウイグル問題でいえば「彼らはイスラム過激派だから」といったものだ。
しかし個人的にはその多くは、主流とされる思想なり制度が本質的に抱える矛盾の表出ではないかと思う。辺境を見ることで、普段主流の中で暮らしていては見えづらい全体に共通する問題が見えてくるように思えるのだ(それが当サイトを「辺境通信」などと名付けた理由のひとつでもある)。
今回の旅で見えたその歪みのひとつが多様性への理解とその受容だ。中国は事実として多くの民族や言語、宗教や文化が存在する国で、そのこと自体は誰も否定しない。
しかしそれぞれの民族や文化同士の関係は一般的に多様性という言葉から連想される、それぞれの要素が並列・同等という関係ではなく「標準的もしくは望ましい姿」とそれ以外の「存在が許されているだけ」のものに分けられている場合が多い。そこにお互いに対する尊敬や尊重はなく、「最終的にはあるべき姿に同化すべきだが、今はまだ中途段階なので在ってもよし」という上下関係があるだけだ。
一番わかりやすい例が政治思想だろう。社会主義が優れた正しいものであることは前提であり、その他の考えを持つことも(政府に声をあげて反抗したりしない限りにおいては)自由ではあるが、だからといって社会主義とそれ以外が並列の地位にあるわけではない。