一国二制度「連邦制統一国家」朝鮮?──半島問題は朝鮮民族が解決する
その一方、中国籍朝鮮族の独立がきっかけとなり、中国の少数民族独立を刺激し、中国の一党支配体制を崩壊させる危険性も孕んでいる。それも頭に入れながら、北朝鮮がこれまで提案してきた「連邦制統一国家構想」とその時の国際情勢を考察してみよう。
朝鮮半島「連邦制統一国家」の構想
1950年6月に朝鮮戦争が勃発したのは、あくまでも北朝鮮の金日成(キム・イルソン)(当時、首相)が朝鮮半島を統一しようとしたからだ(この詳細な経緯は『習近平vs.トランプ 世界を制するのは誰か』第3章に)。以来、北朝鮮が南北を統一しようと思わなかったことはない。これ自身は基本だ。
問題は、いかなる形で「統一国家」を構想するかである。
それをいくつかの段階に分けて復習してみよう。
1.第1回統一案:1960年8月
北朝鮮が最初に「連邦制統一案」を提案したのは1960年8月のことで、これこそは鄧小平が「中華民国」に対して提案した形と同じ「一国二制度」案だ。中華民国が拒否したので、そのモデルをイギリスのサッチャー(首相)に提案して、長い期間にわたる論議を経て、香港およびマカオの中国返還を達成した。その構想は「南北の政治体制を一定期間そのままにして、南北の政府代表から成る南北連邦制を構成する」というものだった。
これはちょうど、朝鮮戦争時の李承晩政権が崩壊した時期と一致している。李承晩(大統領)はあくまでも韓国が朝鮮半島を統一すると主張して、朝鮮戦争の休戦協定にも反対し、結果、休戦協定と同時に米韓軍事同盟を締結して在韓米軍の駐留を招いている。
2.第2回統一案:1972年9月
第2回目の「連邦制統一案」を北朝鮮が提案したのは1972年9月である。そのきっかけとなったのは、キッシンジャー(元米国務長官)の忍者外交により1972年2月に当時のニクソン大統領が訪中し、朝鮮戦争の敵国であった米中が握手したことだった。
これは「北朝鮮のために戦った中国」と「韓国のために戦ったアメリカ」が和解したことを意味するので、それなら南北和解もあってもいいかもしれないという要素は一つある。
しかし、ここで忘れてならないのは、このとき中ソ対立が激しく、北朝鮮はそれを利用して、専らソ連からの経済および技術援助を得ていたということだ。その意味で北朝鮮は米中和解から疎外されることになるので、米ソ対立という冷戦構造の中にあって、北朝鮮は孤立を恐れて「連邦制統一案」を提案したという事情がある。