書くことが精神を浄化させる PTSDと闘う記者の告白
2010年4月5日にウィキリークスがビデオを公開したとき、私はタスマニアで休暇中だった。誰よりも状況をよく知っていると分かっていながら、この世界的な大ニュースに取り組むのを社内の他の誰かに委ねることになり、私は自分を臆病に感じていた。同ビデオは何百万回も視聴された。
6年以上も悩まされ、私はバグダッド時代の同僚にどう思っているか聞いてみた。全員が、私はできる限りのことをやったと言った。だが、罪と恥の意識が消えることはなかった。
7月後半、私はメアリーにどうしても安らぎが欲しいと伝えた。彼女は私に、精神科の病院ですぐにでも治療を受ける必要があると言った。彼女は「どん底にたどり着いた」と語った。
17号棟
それから2週間後、私はメルボルンにあるハイデルベルク・レパトリエーション・ホスピタルのPTSD患者が集められた17号棟のガラス張りのドアの前に立っていた。
私は不安で、自分を無力に感じていた。越えてはならない一線を越えようとしており、精神科病棟に入院するのだと。
「もっと健康になれるだろうか」。メルボルン行きの飛行機に乗る朝、私はこう記した。「もっと賢く、もっと自制がきくようになれるだろうか。家族のために『絶対に』そうならなくては。
入院受付は食堂の隣にあった。入れ墨に覆われた白髪交じりの男性たちが昼食を食べ終えようとしていた。皆、目の下にくまができている。
看護師が私の部屋に案内してくれた。アルコールを所持していないか、荷物をチェックしていいかと聞かれた。私が持ってきた薬を取り上げ、スタッフが時折、抜き打ちで呼気検査をすると言った。もうラムコークが飲めないのか、と私は思った。
17号棟は20部屋あり、オーストラリアの兵士を治療してきた長い歴史をもつ。
私がここに5週間入院した間、ベトナム、イラク、アフガニスタンでの戦争経験者や東ティモール紛争に参加した人たち、警察官や刑務官、そして運悪く犯罪に巻き込まれた一般市民とも一緒だった。施設は施錠されないが、患者は短時間でも病棟を離れる場合は名前を記入しなければならなかった。週末の外泊は許可されていた。
入院した翌日、担当医と2時間のセッションを行った。自分にとって最大の問題は、ナミールとサイードの死に対する罪の意識だと伝えた。支局長として、彼らの安全に責任があったと。そして、ウィキリークスが公開したビデオをめぐる取材を自分が主導しなかった恥ずかしさがあると。
セッションが終わりに近づくと、精神科医は私がトラウマを合理的に分析しようとし過ぎており、感情を十分に吐き出していないと言った。まるで他の誰かについて語っているかのように、私が自分の経験を話していた、と。インドネシアでの爆弾攻撃や津波の取材といったイラク以前のトラウマについては、少し和らいでいる、とも彼女は指摘。PTSDとの診断を下して、私が蓄積されたトラウマを抱えており、うつ病にかかっていると語った。
私は部屋に戻ると、どうやって感情的に対処すればいいのだろう、ただ泣こうとすればいいのか、などと思った。
入院中、ソーシャルワーカーと定期的に面談し、私の感情のまひや、それが結婚生活や子どもたちとの関係をどのように傷つけたかについて話し合った。入院する際に私が書いた目標の1つは「かつての夫と父親だった自分を取り戻す」ことだった。
リフレクソロジーと「ジェイソン・ボーン」
グループセッションは、うつや不安、怒りをコントロールし、感覚に負荷がかかり過ぎることにうまく対処する方法など、PTSD治療の基本を網羅している。精神性や心の集中、リフレクソロジーやアートセラピー、クッキングのクラスまである。
私は多くのことを他の患者から学んだ。一部の人は17号棟に入院するのは初めてではなかった。私は記者だが、垣根はすぐに取り払われた。重要なのは、自分が同じPTSDを患う者だということだった。騒音や人混みが嫌いで、人との関係に問題があるというように、他の患者が私と同じような症状があると言っているのを聞くことは効果があった。また、気分が明るくなるひとときもあった。
入院して最初の週末、私は近くの映画館で人気シリーズの最新作「ジェイソン・ボーン」を見ようと思った。だが向かう途中、私は病院に引き返した。映画館が混み過ぎているかもしれないことをなぜか忘れていたのだ。そのことを後で若い看護師に話すと、彼は私を見てこう言った。「もうちょっと高尚なものを見るのかと思った」と。記者もハリウッドのアクション映画を見るよ、と私は答えた。
17号棟に入院した1日目から、私はPTSDや、戦争が兵士や記者や市民に及ぼす影響に関する本を読みあさった。日記も毎日つけていた。
時が経過するにつれ、私は自分が改善していると感じるようになった。