書くことが精神を浄化させる PTSDと闘う記者の告白
トレッキングと抗うつ剤
エディターたちは躊躇(ちゅうちょ)なく、私に3カ月の休みをくれた。私は抗うつ剤を飲み始めた。PTSDとの診断を受けてから数週間はひどい疲れに見舞われることがしばしばあった。5月初め、私は仕事復帰を7月まで遅らせた。ストレスと不安にうまく対処するのにめい想が役立つことを期待して、5月から6月にかけて8週間の精神集中コースを受講した。
最高のセラピー、そう私が思ったのは森林を歩き回ることだった。
タスマニアの熱帯雨林で、私は探し求めていた心の安らぎを見いだすことができた。古木に触れたり、川の近くに腰かけたり、霧の立ち込めた山々を眺めたりできるトレッキングに夢中になった。問題を抱えた心を忘れ、ただ森林の空気を吸った。そのうち、タスマニアの自然やウエストコーストの歴史に関する本を熱心に読みふけるようになった。
トレッキングをしていないとき、私の心は動揺し、不安になり、独りでいたがることが多かった。6月初め、メアリーが自分と子どもたちは私の精神状態のせいでとても気を使って生活していると言ったとき、私はおりに入れられた動物のように部屋中を歩き回りながら、彼女に激しい怒りをぶちまけた。メアリーは、もし食ってかかったら殴られると思い、部屋を出たという。
6月27日、私は日記に「脳みそが『レダカン』でおかしくなった」と書いた。レダカンとはインドネシアの言葉で「爆発」という意味だ。メアリーがもし私の日記を目にしたら、怖がるかもしれないと配慮してのことだった。
翌日、私はエディターたちにメールを送り、あまりにストレスを感じるため、仕事を再開できないと伝えた。精神科医も同意見だった。
7月、私の症状は悪化した。ひどいうつ状態に陥ったのだ。まるで霧のなかで生活しているように頭がぼーっとしていた。悪夢も一段とひどくなっていた。最も恐ろしい夢は、武装勢力に追われ、バグダッドの街を走り回っているというものだった。メアリーによれば、就寝中に私の足は、まるで走っているかのようによく動いていたという。眠れるように、私は鎮痛剤のパラセタモールとコデインを服用していた。飲酒もひどくなっていった。ただベッドのなかで終日過ごす、という日もあった。
ナミールとサイードの9年目の命日が近づいたころ、私は2人について、そして当時バグダッド支局長としての自分の行動について深く考えるようになっていた。メールを読み返し、彼らの死を十分に調査したか自問していた。特に、事件から3年後の2010年にウィキリークスが公開した米軍の機密ビデオについて考えていた。そのビデオには、ヘリから銃で彼らが殺害される様子が映し出されていた。
事件は2007年7月12日の朝に起きた。私は支局にいて、いわゆる「デスク」の仕事をしていた。突然、エントランス付近から悲痛な叫び声が2階建てのオフィスに響きわたった。すぐに何か恐ろしいことが起きたのだと私は悟った。伝えにきた同僚の苦しげな表情を今でも忘れない。別の同僚は、2人が殺害されたことを私に通訳してくれた。
外見的には冷静さを保ち、同僚を慰め、米軍に対応して事件の原因を突き止めることに集中しようとしていた。2人が亡くなる前日には、ロイターのために通訳してくれていたイラク人がバグダッドで銃弾に倒れていた。彼が仕事に現れなかったことで、数日たってようやく彼の死を知ったのだった。(通訳者の両親は名前を明かさないことを望んでいる)
私の内面は、今にも崩れんばかりだった。
ナミールとサイードが亡くなってから数日後、私はノイローゼになったようだった。嘆き悲しむにつれ、支局長を辞任するのが最善の策だと思った。あまりにもストレスがかかり過ぎていた。自分より強い誰かが引き継ぐべきだったが、私はそのまま仕事を続けた。