トルコという難民の「ダム」は決壊するのか

2016年11月30日(水)17時30分
望月優大

3. 世界はトルコに何を求めるのか

 問題を改めて振り返ってみる。EU-トルコ間合意という名の取引における最も重要な矛盾はどこにあるか。

 それは、人権規範の守護者たるEUが、人権侵害を主な理由としてEU加盟を認めていないトルコに対して難民を送り返し、しかもそのことと引き換えにトルコのEU加盟交渉を加速させるという約束をしたという点にある。

 どういうことか。

 EU諸国における難民受入の困難は、難民を受け入れたからには自らが奉じる人権規範を彼らにも適用し、人間らしい暮らしができるように最大限の努力をしなければならない、というところにある。

 なぜなら、それを実現することが実際に存在するリソースの観点から本当に難しいかどうかということとは別にして、特にEU諸国内で相対的に貧しい暮らしをしている人々の想像力においては、日々増加する難民の利益と自らの利益が背反しているというストーリーを思い描くのを止めることがとても難しいからだ。

 近年ヨーロッパの各国で極右勢力が同時に大きく伸長しているのは決して偶然ではなく、彼らやその支持者たちの存在は政権運営上、そして政治的正統性の調達という観点でもはや無視しえないレベルまで大きくなっているのである。

 そこで、受け入れたからにはきちんと保護しなければならない、しかしそれが難しいからそもそも受け入れる量を抑制する、そういう論理が根底の部分でどうしても必要になってしまう。難民受入に積極的なドイツこそが合意の推進者であったのはそうした意味においてであろう。

 では、なぜトルコはEU諸国よりはるかに多くの難民を国内に抱え続けることができるのか。それは何よりも、人権規範を遵守しなければならないという制約からのフリーハンドがEU諸国に比べて相対的に大きいからである。

 例えば、トルコにいるシリア難民の子どもたちが、ZARAやマークス&スペンサーなどグローバルなアパレル企業関連の工場で不法に長時間労働させられていたことがわかっているが、これはEU圏内では「できない」し「やってはならない」ことだ。

 さらに重要な論点として、日本も加入している難民条約における「追放及び送還の禁止」について触れておきたい。これは、「ノン・ルフールマン原則(non-refoulement)」と呼ばれる原則に基づくもので、難民条約の締約国は、祖国であれ第三国であれ、安全でない国へと難民を追放・送還してはならないという大原則があるのだ。


第33条【追放及び送還の禁止】
1. 締約国は、難民を、いかなる方法によっても、人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見のためにその生命または自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放しまたは送還してはならない。

 さて、ではトルコは難民にとって「安全」な国なのだろうか。EU-トルコ間合意が結ばれたということは、EUはトルコが安全であると判断したということを意味する。しかし、その判断に対しては様々な形で疑義が呈されている。

 詳細は2016年6月のヒューマン・ライツ・ウォッチによるレポート「EU:シリア難民のトルコ送還を停止すべき」をご覧いただきたいが、トルコ国内で難民の権利がきちんと保障されておらず、公共サービスが整備されていない難民キャンプでの生活を余儀なくされる可能性も高いこと、またシリアとの国境でシリア難民の追い返しを行っていることなどが指摘されている。

 しかし、私たちは一体誰を非難すれば良いのだろうか。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米バークシャー、24年は3年連続最高益 日本の商社

ワールド

トランプ氏、中国による戦略分野への投資を制限 CF

ワールド

ウクライナ資源譲渡、合意近い 援助分回収する=トラ

ビジネス

ECB預金金利、夏までに2%へ引き下げも=仏中銀総
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    細胞を若返らせるカギが発見される...日本の研究チームが発表【最新研究】
  • 4
    メーガン妃が「アイデンティティ危機」に直面...「必…
  • 5
    障がいで歩けない子犬が、補助具で「初めて歩く」映…
  • 6
    深夜の防犯カメラ写真に「幽霊の姿が!」と話題に...…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 9
    トランプが「マスクに主役を奪われて怒っている」...…
  • 10
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 4
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 9
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 10
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
  • 10
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中