いとうせいこう、ギリシャの「国境なき医師団」を訪ねる.1
出発7月14日
始まりは7月14日の木曜日だった。
俺は昼間からあれこれ仕事をし、くたくたで夜の羽田空港へ行った。フライトは深夜。ドーハ経由でアテネに行くことになっていた。
きちんとしたギリシャの位置を世界地図上で見たのは、そのドーハから乗った機内でだった。最終目的地であるギリシャは右にエーゲ海、その他は地中海に囲まれているのだけれど、同じ地中海は右側のトルコ沿岸をも浸し、そのトルコの南にすぐシリアがあるのだった。
俺は飛行機の中でビデオを見る習慣がない。それでだいたいあのカーソルみないた飛行機が地図の上を移動していく画像をじっと見る。自分でもかなり自閉的な傾向があるのではないかと思うが、機体速度や目的地の時間を繰り返し見ているのが好きなのだ。ちなみに、台風の沖縄で数時間、天気チャンネルで台風の動きを見ていたこともある。あの時はなぜか池澤夏樹さんも一緒だった。
それはともかく、ギリシャが東方的な文明を持つことの皮膚感覚的な意味を、俺はいい年をしてようやく、それも座席前部に付いたモニターに映る世界地図での、アテネとアレッポのあまりの近さによって知ったのである。
付け加えて言えば、決して素直にドーハからアテネに着いたわけでもなかった。トランジットのほんの一時間の間に、俺たちはようやくつながったネットによって、その日がフランス革命記念日であったこと、その式典の中にトラックが突っ込んだことを知った。空港のテレビモニターにはアルジャジーラ放送が静かに映っていて、惨劇の情報がもたらされていた。それを無言で見るのはアフリカ、中東、ヨーロッパ、アジア各国の人間たちだった。みな複雑で絶望的な視線を事件に向けていた。
そんな状況で俺たちはアテネに向かった。アラビア半島を西北へ斜めに突っ切り、アレクサンドリアの上を通り、パラドックスの比喩で有名なクレタ島を過ぎれば、垂れた葡萄のような形の先端がアテネだった。
つまり民主制発祥の地だ。
MSFギリシャへ
空港に着いてEU市民でない者の列に並び、国内に入るとすぐに地下鉄を探した。ほとんど地方空港と鉄道という感じの近さにそれはあった。目指すのは谷口さんが持っているコピー用紙によれば「メガロ・ムシキス駅」らしかった。地下鉄とは言え、しばらく車体は外を走った。
車窓の向こうにはオリーブらしき樹木と、糸杉らしい木、さらに知らない葉が茂っていて、いかにも地中海性気候というやつだった。日差しが明るく、空が青く、その空を鳩とツバメの中間みたいな鳥が何羽も飛んでいた。
これはのちのちも続くことだが、ある駅からアコーディオン弾きが乗ってきて、いかにも中東的な要素の濃い哀切なメロディを鳴らして回った。アコーディオンの横にはガムテープでプラコップが貼ってあったが、小銭を入れる人は誰もいなかった。
もしそれが観光だったら、俺はあの時その流しに小銭を与えたかもしれない。いかにも異国らしい情緒にひたるために。
だが、俺はギリシャの経済的疲弊を知っていた。むしろアコーディオン弾きの暮らしがせっぱ詰まっているのだと思うと、反対に俺の手は動かなくなった。まったくおかしな話だ。あの時、俺は積極的に小銭を出すべきだったのではないか。
なんとか「メガロ・ムシキス駅」についたのはいいが、そこから歩いていくべきMSFギリシャへの道を迷いまくった。途中すぐに俺は用意していたキャップをかぶったのだが、すでに脳天は暑かった。熱中症になるおそれがあるほどの陽気の中、俺たちは荷物を引きずりながら同じがたがたの道を左に行き、右に行き、四十分を費やした。