いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く6 (パーティは史上最高)
派遣スタッフ宿舎の屋上から首都を見渡す(スマホ撮影:いとうせいこう)
<「国境なき医師団」の取材で、ハイチを訪れることになった いとうせいこう さん。取材を始めると、そこがいかに修羅場かということ、そして、医療は医療スタッフのみならず、建物を造ったり、水を確保したり、といった様々なスタッフによって成り立っていることを知る。そして、夕方、パーティーに招待された...>
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 1、2、3、4、5」
革命家の銅像
治安のよろしくない地域を抜け、紘子さんとダーンと谷口さんとリシャーと俺の五人を乗せた四駆はポルトー・プランスの中心街をゆっくり走った。
正午前のそこには多くの官庁が集中し、公園があり、あるいは確か少し手前に市内最大の墓地があって、白い壁が続く先に『2010』と刻まれた白い門が立っていたりした。天秤も描かれていたように記憶する。天災を前にしてなお裁きを求めるとは、ある意味いい加減な仏教的心性を持つ身からはいかにも厳しく感じられた。
「おはか」
と言っているのは谷口さんだった。
「ウ・ア・カ」
とリシャーが反復した。
「お・は・か」
「オ・ハ・カ」
リシャーは日本語を覚えて満足そうだったが、初めての日本語が「お墓」でよかったのだろうか。
やがて車は独立の志士を称える像の横を通り、美術館の脇を過ぎた。その美術館のあるシャンドマルス公園では昨年、MSFの写真展も開かれたそうだった。
アイスクリームの屋台があちこちに並んでいて、明るい日差しを浴びていた。紘子さんはいつもそれを食べたくて仕方がなくなると言ったが、コーディネーション・オフィスは屋台の食べ物を衛生的に禁じていた。見るだけなら街並み同様、まことにのんびりしていた。
官庁街は美しかったが、中がうまく機能しているとは言えなかった。例えば、1957年に政権をとったデュヴァリエ大統領が二代にわたって独裁を続け、逆らう者を殺め、国外追放をし、好き放題にふるまったあげくフランスへ逃亡したのだった。そのあと左派の司祭アリスティドが大統領となったが、すぐにクーデタが起こり、アメリカが介入。再びアリスティドが選挙で選ばれるも3年後の建国200周年(2004年)に反政府武装勢力が蜂起。さらに暫定を含む3代の大統領の政治とハリケーンと大地震を経て、その日があった。
政変の連続の中で軍を持たなくなったハイチは警察国家であり、それ以外は国連が仕切っていた。公園に人が集まれば、クーデタになる可能性が今も当然あった。だからこそ日本の外務省が渡航を控えるよう呼びかけているに違いなかった。ギャングの撃ち合いだけが理由ではないはずだ。
しかし、黒人奴隷が広場に集まって蜂起した歴史を持つ以上、ハイチ国民にとって権力の言うことを聞かないのは伝統なのに違いなかった。それがアナーキーな貧困を産み出し続けているにせよ。
問わず語りのように、紘子さんは四駆の中で"以前、西アフリカのベナンに2年いた"ことを話し出した。MSFに参加する前に、海外協力隊としてかの地で働いていたのだという。
「そこでもさっきの、銅像を見たんですよ。当時は歴史があんまりよくわかっていなかったんですけど。だからハイチにミッションで派遣されて、あの人だ!って思いました。縁があるっていうか」
銅像がかたどっていたのは『ポール校長の授業』でも書いたトゥーサン・ルヴェルチュール、ハイチを独立に導いた人物の姿だった。ではなぜベナンにもそれが建っているのかといえば、かつてそこに存在したダホメ王国がトゥサンの父イポリトの出身地だったからだ、と今はインターネットで調べたから俺にもよくわかる。
"奴隷海岸"とヨーロッパ人が名付けた地域から、イポリトはハイチに運ばれた。ダホメ王国では首長だったというから、もともと周囲の者への説得力も違っただろう。
そして息子トゥーサンが生まれ、黒人初の共和国を打ち立てるに至る。
つまりベナンはそれを誇っているわけだ。
偉大なる革命を起こしたのは、我らの大地から奪われて行った一滴の血なのだ、と。
そして書き手の俺と読み手の貴方は今、その血が造り出した国家の、長い苦難の一端を目の前にしている。