いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く2(イースターのハイチ)
ハイチ編2
コーディネーション・オフィスの白板。今見ると一週間ずれてるけど……。
<『国境なき医師団』の広報から取材を受けた いとうせいこうさんは、団の活動があまりに外部に伝わっていないと思うやいなや、"現場を見せてもらって、原稿を書いて広めたい"と逆取材を申込み、ハイチを訪れることになった...。>
参考記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く1(プルーフ・オブ・ライフ)」
空港到着
ハイチの首都、ポルトー・プランスの小さな空港に着いたのが、日付の上で前日の朝八時だったと思う。トランジットの度に時間をホップするように後戻りしたため、俺は時の感覚を失ってただひたすら頬や顎に生えたヒゲをさすってぼんやりした。
空港内で簡単な入国審査(空港税を100ドルほど払うのが主眼だと思えた)をすませている間にも、カリブの陽気な音楽が施設内に響いていた。反響がよく効いていて、そこそこ高価なスピーカーを設置しているなと思った。
だが、いざハイチ国内へ足を踏み入れてみると、空港の奥のフロアで体を揺らしている五人組の男たちがいた。マラカス、カホーン、小さめのコンガ、バンジョー2本のバンドが生演奏していたのだ。ホールの鳴りと、彼らのプレイの確かさのあまり、それは目の前で見ていても録音されているようにしか聞こえなかった。このリアルさのずれは、その後も俺をしばしば襲うことになる。
外へ出ると涼しい風が吹いていた。陽に当たるとそれなりの暑さはあるが、ハイチは雨季直前のベストシーズンなのだった。その気持ちのよい晴れた朝の空の下に、たくさんの男が群れ、次々と空港から出てくる者に話しかけていた。タクシーはどうだ、と言うのだ。
発展途上の国なら当たり前の光景だけれど、客引きの目の真剣さは例えばバンコクよりマニラの方が鋭いし、ニューデリーならなおのことだ。そしてハイチのそれにもかなり切迫したものがあった。
谷口さんと俺は訛ったフランス語か、現地のクレオール語かでさかんに話しかける人々をかきわけるようにして先へ進んだ。誰かが迎えに来ているはずだというのだった。
谷口さんが一人の黒人女性に「MSFはどこですか?」と聞いたのだと思う。女性は背後を指さし、「MSF!」と言った。現にそちらに白いベストを着用した現地の男性がおり、その胸に赤く『MEDECINS SANS FRONTIERES』と印刷されているのが見えた。
俺はその折の彼女の声の調子を忘れていない。みながみなガツガツと客を取りあい、生活の糧のために喉を涸らしている中、その瞬間の彼女は善意の塊のようになった。尊敬、というようなものが伝わり、MSFを探している我々を妨げずに通せと周囲に警告する強い感情があった。実際、黒人女性の「MSF!」という叫びのあとからは、客引きは一切我々に話しかけようとしなかった。
無線
ベスト姿のドライバーの方へ近づき、あとをついていくと、やはり白い車体に赤い文字の入ったトヨタの四駆が待っていた。名を名乗りあいながら後部の砂だらけの荷物置き場にキャリーバッグを放り投げ、座席に座って言われるままシートベルトを締めると、ドライバーは無線の送受話器を取って自分の名前を言い、イロコ、セイコーと我々の名を伝えた。谷口さんは下の名がヒロコなのだが、そこがHを発音しないフランス語圏であることがよくわかった。
発進する車の中で、そのイロコさんが教えてくれたところによると、帰国までの間、我々は各地点で同様の四駆を乗り継ぎ、乗車時と降車時には必ずセンターに名前を伝えなければならなかった。どこに今、誰がいるかは絶対に把握されている必要があり、それは安全確保と同時に、緊急時に誰が先に駆けつけられるかの指示のためであった。
さらに、あとでわかったことだが、行き先の名はすべてコードネームになっていて、盗聴に備えられていた。したがって我々がその3月24日木曜日の早朝に空港から向かった「OCAのハイチ・コーディネーション・オフィス」は、例えば「木漏れ日の別荘」などと呼ばれているわけなのだ(実際はいちいちもっと洒落ていてちょっとシビれるほどなのだが、ここでコードネームを明かすわけにもいかないし、そのセンスを伝えるのも解読を助けてしまう以上よろしくない。残念だ)。
さて、壁にペンキで塗られたフランス語だらけの町並みを四駆が行き、アスファルトのひび割れたゴミだらけの道路脇に座ったおばあさんが果物やサトウキビや紐で縛った十数羽の生きたニワトリなどを売っている様子を眺め、ちょうど選挙運動期間中なのか終わったばかりなのか解像度の悪いポスターが所狭しと貼られている中を30分ほど行く間に、ついさっき書いた「OCA」という単語を説明しておこう。それはMSF全体を理解する助けになるだろうから。現に俺自身、ガタガタ揺れる車内で谷口さんからレクチャーを受けたのだ。
『国境なき医師団』には現在、各国に28の事務局があり、その中には日本事務局も含まれている。そうした様々な地域でのプログラムを5つのOC、すなわちオペレーション・センターが企画、運営している。
OCP、パリ(フランス)
OCB、ブリュッセル(ベルギー)
OCA、アムステルダム(オランダ)
OCG、ジュネーヴ(スイス)
OCBA、バルセロナ(スペイン)
以上、5つ。
ということで、今回取材申し込みを受け入れてくれたのはOCAだと俺は車内で初めて知ったわけなのだけれど、ではハイチのプログラムをすべてOCAが担当しているかというとこれが違う。パリもブリュッセルも他のOCも人員を送っているし、コーディネーション・オフィス(運営本部と言ったところか)を立てている(いた)のだそうで、つまり複数のプログラムがそれぞれ動いており、各OCの下で働く日本人同士であってもまったく会わずに活動を終えて帰国することなどザラだという。
それぞれのOCはいざとなれば助け合う。とはいえ、基本的に独立して活動する。これは緊急プログラムの際、都合よくシステムが働くためでもあろう。どこかの活動が滞っても、別のOCが救援を続け、ある時には物資を調達するなど運営を統合したり分離したり出来るだろうからだ。自由独立集団であればこその組織論が具現化されているのである。
ちなみに、各々のOCによって活動の仕方に特徴があるらしいこと(文化的遺伝子とでもいうようなもの)を俺は数日の滞在で知ることになるが、その説明はまたの機会に譲ろう。ドライバーが無線で再び俺たちの名前を言い、坂道の途中の邸宅の鉄扉が開いて、中に詰めている現地スタッフが見えてきたから。