いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く4 (READY OR NOT,HERE I COME)
ナプ・ケンベセンターの裏側の鉄扉が開く(スマホ撮影)
<『国境なき医師団』の活動を少しでも自分の手で広めようと、ハイチを訪れることになった いとうせいこうさん。首都ポルトー・フランスのコーディネーションオフィスに到着するやいなや、ハイチという国の成り立ちと苦難の歴史のレクチャーを受け、ハイチに対する考えを新たにした。そして到着2日目、本格的な取材が始まった...>
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 1、2、3」
本格取材、始まる
2016年3月26日......だったかどうか時差の関係でよくわからない。しかも早朝の、たぶん8時(国際的に認められていないサマータイム)。
ともかく爽やかな朝であった。
キッチンで谷口さんが素早く果物をむいてくれていた。前夜、ダイニングのカゴにぎっしり入っていたものだ。俺はハイチ産コーヒーをエスプレッソマシンで淹れた。
ここだけ読んだらリゾートのようだ。
だが、四駆を呼んで名前を無線連絡して出発すると、あちこちの建物がいまだに壊れたままの道になった。ハイチ全体では数十万人が仮設の家でビニールを屋根にして暮らしているという話も聞いた。
まずOCAコーディネーション・オフィスへ行って、前日同行することになった菊地さんと、もう一人、ダーン・ヴァンブリュッセレンというベルギーから来た優秀な小児科医と待ち合わせた。ダーンは銀ぶちの眼鏡をかけた短髪の、これまた人当たりの非常に優しい人だった。人柄のいいトルシエ監督みたいな感じがあった。
菊地さんとダーンはフランス語で話し、谷口さんとダーンは英語で話し、俺と菊地さんは日本語で話すという言語のるつぼの中、黒人男性リシャー・アクシダットが現れた。
大きな体躯が筋肉でふくれあがっているように見えた。しかしその体をリシャはことさら小さく縮めるようにし、我々とかすかな握手をするために腰を低めると、象のような目を細めて「ようこそいらっしゃいました」とフランス語訛りの英語で言った。
彼はOCAとOCBの広報を兼務していて、その日からあちこち回る施設との交渉、写真撮影の可否など一切を担当してくれることになっていた。現地ハイチのスタッフだということだった。
READY OR NOT,HERE I COME
首都ポルトー・プランスの東部に位置するタバル地区という場所に、我々の四駆は向かった。そこにはコンテナをつないで造営されたナプ・ケンベセンターというMSFの巨大な病院があるのだった。
なぜそこに菊地さんやダーンが行くかというと、ハイチに派遣されている彼ら自身、担当の施設以外を訪れるチャンスはまずなく、たまたまイースターに我々が訪問をしたからこそ、休暇の彼らが見学可能になったのだった。つまり他の病院の医療体制を見たいという二人の真面目さによって、四駆の中がより国際色豊かになったわけだ。
俺は運転手の横に席を取り、三つの言語が飛び交うのを背後に聞きながら町並みを見た。タプタプと呼ばれる安い乗車賃の乗り合いバスのような車に、人がぎっしり詰まっていた。アジアでもよく見るトラックのような車で、外側に様々な装飾がしてあった。
道路には時にがれきが集めて置かれ、黒いビニール袋やむき出しのゴミが山になっていることもあった。それをさして不潔だと感じないのは、どうやら乾期だかららしいということが背後の会話でわかった。そろそろ来る雨季ではあちこちが冠水し、干上がっている小川に水が溜まる。すると、町全体にゴミが浮いている状態になるのだという。そしてコレラが大勢の人間を襲う。
けれど、話をいくら耳にはさんだところで、目の前にある陽光の弾けるポルトー・プランスにはエネルギッシュに人が動き、道端で様々な食べ物を売り、ゴミの山を犬や牛がつつき回り、子供たちが笑っている頭上には家の軒から赤と白のブーゲンビリアが垂れて咲き誇っている。
例の「リアルさのずれ」が俺を襲った。事態の深刻さが見えにくいのだった。
そうした町の様子を車からスマホで撮ろうかとも思ったが、俺にはジャーナリスト気質が欠けていた。撮られる側のことが気になった。というより、撮る立場の俺が支配的な気分になるのが嫌だった。
すると、リシャーがこういうところではカメラを向けないで欲しいと低い声で後ろから言った。彼らには彼らの権利がある、と現地スタッフとして言いたいのだろうと思ったが、法律的に言えば政府から俺に一般ジャーナリスト証が出ていないということらしい。つまりMSF以外での撮影には制限があるということになる。
「はい」
とだけ、俺は答えた。もともとそのつもりはなかったから。
すると、道の脇に奇妙な集団がいるのに気づいた。十数人の若者が、ひらひらした紙のようなものを体中に下げていて、下を向いて小刻みにリズムをとりながら移動しているのだった。
「ヤヤ」
とリシャーが言った。
ハイチのイースターでは、キリストの復活の様子を自分たちで繰り返すために歩くのだそうだった。その儀式の名前がヤヤだった。ただし、そこで反復されているのはゴルゴダの丘へ行く悲劇の主キリストだと説明された記憶がある。ともかく、打楽器が集団の内側で打たれていた。ギターも鳴っていたかもしれない。車内からは聞こえにくかった。
集団の中の一人の黒いTシャツの背に、フージーズがカバーしたヒット曲の元タイトル『READY OR NOT,HERE I COME』が白く印刷されていた。フージーズのメンバーであるワイクリフとプラーズにはハイチの血が流れており、大地震のあとにもさかんなチャリティを行っていたのを思い出した。
けれど、その言葉「READY OR NOT,HERE I COME」は、元来のラブソングとは違う意味で俺の頭の中に響いていた。
なんにせよ私は来る。
それは神のことなのか、地震か。
四駆は彼らの歩行をゆっくり通り過ぎた。
じき曲がって入っていった住宅街の道端に一頭の子ヤギがつながれていて、静かに足元をはんでいた。
俺はもちろんその様子も撮らなかった。