いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く3 (ポール校長の授業)
授業中の写真のひとつ。首都の地図を参照にする校長(スマホ撮影)
<『国境なき医師団』に取材され、結局、ハイチを訪れることになった いとうせいこう さん。ハイチのコーディネーション・オフィスに到着すると、校長先生みたいなツンデレのポールが出迎えてくれた...>
前回記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く2(イースターのハイチ)」
知りません
「えっと、黒人による革命で、あの、支配者だったフランス人、とかを追い出して、それで共和国を作ったのがハイチで、つまり奴隷が作った、世界で唯一の、えっと国家です」
俺はしどろもどろで、必死に答えた。
OCA(オペレーション・センター・アムステルダム)のリーダーであるポールに『ハイチの歴史』を問われたからである。
しかし、俺の答えに対するポールの反応はきわめて冷たかった。
「いつ?」
「......」
「いつそうなった?」
我らのポール校長は曖昧な把握を許さないのだった。
俺は降参するように口を開いた。
「知りません」
第一に、緊張して英語がうまくしゃべれなかった。取材旅行の話を聞きつけた友人が、自分が開校する寸前の英語学校で一ヶ月の、それもインタビューに特化した訓練を施してくれたにもかかわらず(GCAI、ありがとう。そしてごめん)。
第二に、俺が口に出したのは付け焼き刃の知識だった。
俺は日本からの長い飛行時間の一部を、昔ハイチ地震のチャリティにかかわったあとに買ったままだったエッセイ集を読むのに使い(あとはひたすら寝ていた)、初めて出会うハイチ出身の亡命作家エドウィージ・ダンティカの奥深く慈悲と苦痛に満ちた筆致にしびれながら、彼女の小説を二冊、なぜか自分が読みもしないのに偶然手放さないでいたことに驚いていた(ただし今年に入って急激により多くの物質を捨てるという、人生の終わりを見越したブームの余波を受けたはずだ)。
それはともかく俺は、エッセイ集『地震以前の私たち、地震以後の私たち』(作品社)にこうあったのを、ポール校長の前でいかにも以前からよく知っていたかのように語らなければと焦ったのだった。
そして、冒頭のように失敗したわけである。
では、ここでかわりに、エドウィージ・ダンティカの簡潔な名文(1904年)を呼び出しておこう。
「西半球で二番目の共和国が作られてから、二百年が経った。建国当時、最初の共和国、アメリカ合衆国からは何の祝賀の挨拶もなかった。新共和国ハイチは、十二年間にわたる血なまぐさい奴隷蜂起を通して独立を勝ち取っていた。世界の歴史のなかで、奴隷たちが主人を権力の座から引きずり下ろし、自らの国家を造ることに成功したのは、この一例だけだ」
そしてポール校長の授業が始まる
我らのポール校長もまた、この「独立」をめぐる年号を、出来の悪い生徒である俺を指さしながらゆっくり発音した。
「1804年だよ」
「......1804年」
俺はオウム返しに答えた。こういう時は素直が一番だ。
校長はそれからのち、部屋の壁に貼られた地図や、空を指さしながら、俺に長い授業をしてくれたのである。なんのメモもなしに。
今から200年以上前、宗主国フランスが革命のまっただ中である頃、遠く離れた中米ハイチでは、アフリカから数百年間連れて来られ続け、労働させられ続けていた黒人奴隷たちが大量に脱走し、蜂起した。
それがハイチ独立宣言からさかのぼること13年前。すなわち1791年のことなのであった。
自らは革命を目指していながら、フランスはハイチの黒人革命を認めようとしなかった(優れた幾つかの議論は国内であったものの)。がしかし、そのフランスを囲むイギリス、スペインなどがすかさず反革命戦争を起し、外地ではフランスの植民地を奪おうとする。
皮肉なことにフランスがとったのは、黒人奴隷に武器を与えて戦わせるという策であった。そのため、1793年、奴隷解放宣言が出され、翌1794年には本国議会においても奴隷制廃止が決議されることとなり、70万人の奴隷が一気に解放されるのだ。
この事実だけでも実に驚くべきことだ。世界のほとんどの人間が知らされていない。18世紀にすでに、黒人が自らの手で革命に成功していたなんて。
そして俺はここに小声で、もうひとつ重要な事実を書き記しておきたい。黒人奴隷解放直後の1795年、今のドイツでエマニュエル・カントが『永遠平和のために』を発表しているのである。のちの国連の礎となり、日本国憲法九条の奥にも流れていると言われる思想は、ハイチの奴隷解放宣言に影響を受けている可能性がある。
少なくともカントが永遠平和の構想を練っている時、ヨーロッパはフランス革命のみならず、ハイチ革命に揺れていたのだ。
さて、時間を越えたこの原稿上の脱線を知らないポール校長は、当時の俺の目の前を右に左に歩きながら、まだまだ君が驚くべきこと(「remarkable」という単語を彼は何度もゆっくりと強調して使った)があるんだ、と指を柔らかく立てて言った。
なぜならその後、フランスにはナポレオンが登場するからだよ、セイコー、わかるね。
「はい」
彼らは1801年、遠征軍をハイチに送り、奴隷制復活を狙う。そしてハイチ側の指導者トゥサン・ルヴェルチュール(ちなみに、この英雄は憲法作りを主導し、なんと「人に隷属することは永久に廃止される」と、世界中の人権宣言の先駆けのような条項を公布する!)をだまし討ちにし、フランスにおびき寄せて監獄に入れて殺してしまう。まったくひどい仕打ちだ。
しかし、セイコー。
いや、ここには帰国後にそこそこの勉強をした俺の言葉も十二分に混じっているのだから、そろそろ正直に、読者諸君!と呼びかけよう。
読者諸君!
ハイチで奴隷であった黒人、そして現地の白人との間に生まれた混血ムラートが1802年に団結をするのだ。ナポレオンの反革命がかえって彼らを奮起させてしまうのである。歴史の狡知、とヘーゲルなら言うかもしれない。
そしてハイチ革命軍は"驚くべきことに"連戦連勝、翌年には早くもフランス軍を完全敗北させ、さらに次の1804年、総司令官デサリーヌらが「フランス支配のもとで生きるより死を選ぶことを、未来の人々と世界に誓う」と血のたぎるような独立宣言を行う。
だが、ハイチは他国から独立を認めてもらえなかった。
そして世界最初の独立宣言をしたアメリカからの無視(彼らはハイチの影響によって完全な奴隷解放が行われるのを恐れたのだった)、元宗主国フランスの「独立を認めるから多額の賠償金を払え」という法外な要求などにより、苦難の歴史をたどるのである。
貧困が常に彼らを襲う。コーヒーや砂糖作りというかつての産業は、宗主国たちが奴隷貿易を介して作り上げたものだから。そして建国直後に払わされた賠償金を返すために、彼らはさらに借金をさせられたから。
その上、ハイチの政治も安定しない。
21世紀になっても大統領選をめぐって反政府勢力が蜂起し、不正選挙だと言って世界銀行が援助を停止し、アメリカ軍が駐留し、国連派遣団が入り、あるいは2004年には森林伐採の影響もあってハリケーンで2000人の死者を出した。治安は悪化した。
権力はムラートに集中し、支配下に置かれた黒人の間にはしかし、誰の言うことも聞かない誇り高い伝統が存在し続けている。それがハイチだということになる。
そういうすべてを経た上で、読者諸君。
ここで語り手をポール一人に譲ろう。
「2010年に大地震が起きたんだよ」
このような視点で援助を考えるリーダーがいることに、俺は目が開かれる思いがし、すっかり感じ入ってしまった。
地震以後、「写真を撮り、あれこれ約束し、結果何もしない」者たちに対してハイチ人がいら立つ、その怒りの根本を理解しなければ、彼らを本当に救援することが出来ない。
ポールの言っていたことが、授業の後の俺にはよくわかった。
本来、ハイチは尊敬されるべきなのだった。
全世界から。
モハマド、マタン、マリーン
もといたソファに戻ると、ロジスティック(物資調達管理部門)・コーディネーターのモハメド・アリ・オマールと、サプライ・マネージャー(供給部門)のマタン・ムティマがいた。前者はスーダンから、後者はコンゴ民主共和国から来たスタッフだ。もちろんアフリカ人である。
彼らは屋敷の外の気持ちのいいテーブルへ我々を導き、地図を広げてどの地域の治安が不安定か、季節によって外出禁止地域の時間帯が変わること、最近の誘拐犯の手口についてなどを説明してくれた。説明の一部には「どこなら歩いていいか」というものがあったが、笑ってしまうくらい狭いエリアだけでしかも時間に制限があった。