パナマ文書、国務院第一副総理・張高麗の巻
昨年11月、北京の国際会議に出席した国務院第一副総理・張高麗 China Daily-REUTERS
パナマ文書には張高麗(チャイナ・セブン党内序列ナンバー7)の娘婿・李聖溌がオフショア会社3社を所有しているとある。張高麗の関与がどれくらいあるのかを考察する。中国の恐るべき金権政治の世界が見えてくる。
(チャイナ・セブンとは「習近平政権における中共中央政治局常務委員会委員7名」を簡略化していうために筆者が命名した呼称。なお、本稿では肩書を明示する必要に迫られた場合以外は全て敬称を省略する)
張高麗、出世への道――江沢民の愛護を受けるきっかけ
1946年、福建省晋江(しんこう)市で生まれた張高麗は、1970年から1984年まで石油部「広東茂名(もめい)石油公司」におり、言うならば「石油閥」の一人である。広東省茂名市党委員会の副書記や広東省副省長などを経て、1997年に広東省深セン市(中国共産党委員会)書記になるなど、ひたすら広東で31年間にわたって仕事をしてきた地味な前半生だった。
しかしこれが出世のきっかけを作ったのだから、人の運命はわからないものである。
2000年2月、国家主席だった江沢民が広東省茂名市に来て、ここで「三つの代表」論を初めて公開した。
「三つの代表」論は「中国共産党は無産階級(プロレタリアート)の先鋒隊を代表する」という伝統的な中国共産党理論を真っ向から否定するものであり、「有産階級(資本家階級)を入党させる」という「金持ちと権威」を結び付けるものとして、北京では保守派長老や伝統を守ろうとする党員たちから激しい反対を受けていた。
そこで江沢民はこの「三つの代表」の最初の意思表明を、北京から遠い改革開放発祥の地、広東省に来て、しかも本丸の「深セン市」を避けて、ちょっと離れた「茂名市」で行なおうとしたのである。
この選択によって張高麗の運命が決まる。
このとき広東省の副書記をしていたのは張高麗。深セン市の書記でもあり、特に茂名市には70年から85年まで15年間もいた。したがって江沢民の「三つの代表」講話の主たるお膳立てと接待はすべて張高麗が担った。
張高麗はすっかり江沢民に気に入られ、やがて山東省書記、天津市書記へと、出世階段を上っていくが、そこには後半で述べる李嘉誠との関係が絡んでいる。
張高麗と習近平の関係――これも「深セン市」
習近平との関係において決定的だったのは「深セン市」。
習近平の両親は、習仲勲の政界引退後の80年代末、風光明媚な広東省の珠海市に住もうと決めていた。ところが珠海市の書記は、そこは一等地だとして、当時はまだ田舎だった深センに習近平の両親を追いやった(詳細は『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』)。