郊外の多文化主義(4)
「同胞」とは誰か
郊外の凋落とグローバル化 日本が今後、福祉国家を適切に維持しようとし続けるのなら、「日本人であるとはどういうことなのか」という問いに真剣に向き合い、場合によってはその内容を改訂する努力をしてゆかなければならない Peeter Viisimaa-iStockphoto.com
論壇誌「アステイオン」(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス)83号は、「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」特集。同特集から、法哲学を専門とする首都大学東京准教授、谷口功一氏による論文「郊外の多文化主義」を4回に分けて転載する。(※転載にあたり、表記を一部変更しています)
※第1回:郊外の多文化主義(1) はこちら
※第2回:郊外の多文化主義(2) はこちら
※第3回:郊外の多文化主義(3) はこちら
福祉国家とナショナリズム
わたし自身が日系ブラジル人問題を初めてはっきりと認識した原点は、映画『サウダーヂ』(2011年)だった。この映画は、山梨県甲府近辺の貧困家庭に育った日本人愛国ラッパー、日系ブラジル人、日本人建設労働者、そしてタイ人ホステスの四つ巴の人間模様の交錯を描き出したもので、郊外の徹底的な凋落とその思いも寄らないグローバル化を完膚なきまでに剔抉(てっけつ)したものである。登場人物のすべてに共通するのは、圧倒的に「出口なし」の現状から脱出できない苦悶である。物語の終盤、登場人物のひとりである愛国ラッパーは、精神に異常をきたした弟から自作の三種の神器を授けられ、自らの個人的窮状のすべての原因をブラジル人に帰した上で、彼らのひとりを路上で刺傷する。
サミュエル・ジョンソンの有名な言葉に「愛国心はならず者の最後の避難所である(Patriotism is the last resort of scoundrels.)」というものがあるが、これはアンブローズ・ビアスが後に正しく言い換えているように「最初の避難所」の間違いなのである。しかし、「ならず者」たちが、そこを最後にせよ最初にせよ、拠り所にするのには、彼らなりの理由があるのではないか。――労働市場の逼迫を支えてきた日系ブラジル人も、劣悪な家族環境・労働環境に苦しむ建設労働者兼愛国ラッパーも、同じ苦界でもがく「同胞(compatriot)」なのではないか。
近年においては、とうとう青年誌に連載されたマンガ媒体でも日系ブラジル人ギャングが真正面から描かれることとなる。『ギャングース』の作中、振り込め詐欺の金庫の張り番をしていた日本人・張本は、自分たちの弟や妹たちを守る場所を手に入れたいと願う日系ブラジル人ギャング少年の左のような絶叫に接し、義侠心から「俺は今から日本人をやめる! 俺のことは今後ホセと呼べ!」という絶叫をもって共振する。
「別に死んでもいいし殺してもいい! 金作って俺らの弟や妹たちとか俺らの子供が生きてていいって場所を作るためなら......わかったかニッポンジン!」(肥谷圭介・鈴木大介『ギャングース』講談社、第9巻)
他方、張本の金庫を強奪したタタキ屋(犯罪者の収益を狙う強盗団)の日本人少年たちは、劣悪な生育環境とその後の境遇(養護施設出身、少年院あがり)がために「ピカチュー」も「嵐」も知らないことから、合コンの席上、同世代の女子たちから「施設とか怖いし......あんたたちマジで日本人?」と言い放たれる(『ギャングース』第8巻)。――闇金の金庫の張り番も日系ブラジル人の少年ギャング達も、施設・少年院出身の強盗団の少年達も、みな同じなのだ。そして彼らが欲するのは弟妹や子どもが安んじて暮らすことの出来るパトリ(patrie)なのだ。