母の死の悲しみを癒してくれた韓国料理──注目シンガー、ミシェル・ザウナー
Comfort Food
主軸は母との関係だ。ザウナーの記憶にある母はあまり感情を見せないが朗らかな女性で、家事をする傍ら趣味で絵を描いた。
「母の人柄をきちんと理解できたのは、他界して何年もたってからだった」と、ザウナーは述懐する。「母は人付き合いがうまく、誰からも好かれた。でも自分のことを話さないタイプで、それが私には不思議だった。私にはそういうところが全くないから」
母と娘を結ぶ究極の絆が、料理だった。
「お弁当からも私好みに作ってくれる毎日の食事からも、愛がにじみ出ていた」。ザウナーは回想録にそう記し、ソウルの母の実家に滞在していたある夜更けに2人で勝手に冷蔵庫を開け、祖母が作った総菜をつまみ食いしたエピソードを懐かしそうにつづる。
「料理というのは本当に多くのものを象徴しているんだと、執筆しながらしみじみ思った」と、彼女は言う。
「母は料理を通して愛を表現した。一方で私は子供の頃から、食べ物にはアイデンティティーや帰属意識を証明し、確認する意味があることに気付いていた。幼い私が韓国料理を韓国人らしいマナーで食べると、母は『やっぱりあなたは韓国人ね』とうれしそうだった。料理は私たちが共有する文化だったから、それを娘がおいしそうに食べるのを見て心から喜んでいた」
親子の関係は時にこじれ、ザウナーの反抗期には特に険悪だった。韓国料理店で食事中に、「音楽の道は諦めなさい」と頭ごなしに言われたこともあった。
「でも、私の中では創造の炎が燃えていて、抑えることができなかった」と、ザウナーは言う。「あれが母と一番激しく衝突したときだと思う」
「私が成長するにつれて、母は折れてくれた。母が『あなたみたいな人に会ったことがないだけ』と言う場面は、回想録のハイライト。あれで私たちの対立は峠を越えた。『あなたが(音楽家としての活動を)愛していて、その気持ちは消えないのだと分かった。今まであまり応援しなくてごめんね』という母流の表現だった」
執筆を決めた2つの理由
一方、回想録で最も痛ましいのは、チョンミの闘病と、それがザウナーと父親に与えた影響を描いた部分だろう。当時20代半ばだったザウナーは、娘から介護人になる。彼女自身、母親の最後の数カ月を書くことは、最もつらい作業だったと語る。
「パソコンの前に何時間も座って、たくさん泣いて、しばらく執筆を休むことの繰り返し。頭がおかしくなってしまうのではないかと思った」と彼女は振り返る。
「この本を書くことにした背景には、2つの焦りがあった。楽しかった子供時代など、トラウマ的な経験をする前の思い出を急いで追体験したいという焦り。同時に、この経験を残酷なほど正直に振り返らなくてはいけないという焦りがあった。私に何が起こり、何から立ち直りつつあるのかを、みんなに知ってもらう必要があった」