米作家ピート・ハミルの死から1年、妻・青木冨貴子がつづるハミルの声と「真実」
THE PETE HAMILL WAY
しかし、このときのように事件現場に居合わせる才覚、あるいは現場を呼び寄せるようなジャーナリストとしてのピートの嗅覚はおそらく天賦のものなのかもしれない。それは9・11同時多発テロでも発揮された。
あの朝8時、ピートは世界貿易センタービル(ワールド・トレードセンター)に近い市庁舎の隣にあるツイード・コートハウス(旧裁判所庁舎)で開かれた歴史協会のミーティングに出掛けていた(なぜ、あの朝に限ってそんな打ち合わせがあの建物であったのか不可解)。途中、「ジェット機がトレードセンターのタワーにぶつかった!」という知らせが飛び込んできた。
すぐに表に飛び出すと、南タワーが大きく爆発して巨大なオレンジ色の炎が噴き出すのをチェンバーズ・ストリートで目の当たりにしたのである。プレスカードを取りに帰宅した彼と一緒に2人でトレードセンターへ向かい、北東角で見上げていると、黒い煙を吐く南タワーがちょっと傾いて、突然、爆発。紺碧の青空に白い物体をキラキラ輝かせながら崩壊するところを目撃した。
自宅はトレードセンターからほんの13ブロック北、幸運なことに停電もせず仕事できる状態だったので、ピートはデイリー・ニューズ紙に9・11とテロ後のニューヨークのコラムを書くようになった。
あの前日の10日、それまで数年温めてきた長編小説『フォーエバー』の完成原稿が上がったので、翌日には2人で夕食に出掛けて祝杯を挙げようと言っていた。ところが、ニューヨークの始まりから今に至るまでの歴史を書きたいと思っていたこの本の最終章は9・11なしには成り立たなくなった。それから最終章の修正に1年以上もかかったのである。
それまでにピートは代表作『ドリンキング・ライフ』(94年)、『8月の雪』(97年、未邦訳)、『ザ・ヴォイス──フランク・シナトラの人生』(98年)、『ディエゴ・リベラ』(99年、未邦訳)などを出し、『フォーエバー』(03年、未邦訳)の翌年には『マンハッタンを歩く』(04年)、その後『ノースリバー』(07年、未邦訳)、『タブロイド・シティ』(11年、未邦訳)などが続いた。
新聞のほかにエスクァイア誌、ニューヨーク誌、バニティ・フェア誌など多くの雑誌に寄稿、エッセーや書評なども書いた。本の序文はどれほど書いたか数え切れない。映画台本も手掛け、時には友情出演(いつも新聞記者の役)した。頼まれるとノーと言えない性格なので、多くの講演会へ出掛けスピーチし、テレビの対談番組などにも出演した。