あの世の生を信じますか?
自分の姿に似せて人間を作り、道徳心(そして道徳心に従うか背くかを選ぶ自由意思)を吹き込んだ神の存在を示す証拠として、昔から言われてきた議論だ。先述の遺伝学者コリンズは、無神論からキリスト教徒に転じた理由としてこれを挙げている。
そしてデスーザは、「神がいるのならば人間の苦しみを放置しているのはおかしい」という無神論者の主張を逆手に取って議論を展開する。この世では悪がしばしば罰を逃れる。だからこそ、道徳律の背後にはあの世での現実──死後、人の魂は審判を受け、悪行の罰を受けたり善行を報いられたりする──があると考えられると言うのだ。「死後の生があると考えれば、今の人生の意味を理解できるようになる」と彼は書いている。
これだけでは納得できない人のために、デスーザは死後の生を信じることの利点をリストアップしている。正直でいられる、人生に「希望や目的意識」を与えてくれる、「複数の調査によれば」死後の生を信じる人はそうでない人よりセックスを楽しんでいる----。
心の慰めにはなり得ない
学校でガリレオ的な知識を詰め込まれた知ったかぶりの子供が、「最後の審判ってどこでやるの?」と聞いてきた場合の答えもデスーザは用意している。それは一部の量子論で予言されているような、世界が無限に増殖している多重宇宙においてだ。
多重宇宙では物理法則はこの世界とは異なる値を取り、物質そのものも異なる形を取るかもしれない。「物理学において、われわれが死後、今とは違う肉体を手にしてあの世で生き続けるという概念と矛盾するものは何もない」
多重宇宙は理論物理学のれっきとした概念だが、経験的な証拠に裏打ちされているわけではないという意味では魂の存在と同じだ。死後の生についての科学的な研究は、少なくとも今のところまったく進んでいない。
ただし、いわゆる臨死体験についての研究ならある。臨死体験をした人のなかには、上から自分自身を見下ろしたとか、自分が蘇生措置を受けているところを見たと話す人もいる。もしこれが本当だとすれば、肉体的な脳から意識が離脱することこそが死後の生の必要条件になる。「臨死体験は、臨床的な死イコール終わりではない可能性を示している」とデスーザは書く。
「心が脳に服従しているわけではないことは神経科学で証明されている」と彼は続ける。「意識や自由意思は自然の法則の外で機能しているように見える。つまり肉体の死をつかさどる法則の対象ではないということだ」
これはプラトンの時代から西欧哲学の分野で唱えられてきたことだが、科学的に検証されたことはない。ワイル・コーネル医療センターの研究員で臨死体験の研究プロジェクトを率いるサム・パーニアは、20の病院で探した600人の臨死体験者を対象に調査を行っており、結果は2010年に発表する予定だという。
パーニアの論文はぜひ読みたいが、それが息子の死で私の人生にぽっかり開いた穴を埋めることにはならないと思う。マックスが別の宇宙で肉体のない意識として生きていると考えたら心が慰められるだろうか? 私はマックスに今、ここにいてほしいと思う。もう1度あの子を抱けるなら、永遠に生きる権利なんて手放してもいい。
あのルイスでさえ、死別のつらさを乗り越えるのに信仰など役に立たないと言い切っている。「宗教の慰めについて私に語ろうとしないでくれ」と彼は『悲しみをみつめて』の中で書いている。「そんなことをされたら、君は分かっていないと思ってしまう」
[2009年12月 9日号掲載]