「浅い」主張ばかり...伊藤詩織の映画『Black Box Diaries』論争に欠けている「本当の問題」
DOCUMENTARY FILMMAKERS ARE RUTHLESS
いま一番危惧することは、この騒動の余波として、ドキュメンタリーはこうあるべきとか、事前に必ず被写体に見せなければいけないとか許諾は全て取るべきとか、曖昧な領域に線が強引に引かれることだ。
ドキュメンタリーは人によって作法が違う。曖昧なグレーゾーンが重要なのだ。さらに、僕の作法だって僕は自らの原則にしていない。状況や相手によってくるくる変わる。
常にケース・バイ・ケースだ。方程式は設定できない。その枠に無理に押し込めるなら、ドキュメンタリーは窒息してしまう。
今回の騒動が複雑化した要因としては、ジャーナリズムとドキュメンタリーの混濁だけではなく、発端が司法の倫理とドキュメンタリーの業の衝突であることだ。これも水と油。折り合えなくて当然だ。
おまえならどうするか。僕もドキュメンタリストである限り、この命題からは逃れられない。結論だけ書く。ホテルの映像もタクシー運転手や捜査員の証言も弁護士との通話も、僕は全て使う(ただし集会の映像も含めて、使い方はもう少し考える)。
作品の価値は高い。#MeToo問題への強い視点だけではなく、政治権力と捜査権力の癒着についても強く告発して、まさしくブラックボックスをこじ開けている。日本でも公開されるべきだ。もしも公開されない事態になるのなら、本当に悔しいし残念だ。
騒動が一日も早く沈静化すること。そしてドキュメンタリーの定義を一方向に決めないこと。今はこの2つを切に願う。