ジャマイカ初のボブスレー代表選手が語る『クール・ランニング』本当の物語
On the Bobsled Team
筆者は4度の五輪に出場 DENISE T. STOKES
<映画ほど楽しく愉快なことばかりではなく、困難でタフな経験だったし納得できない部分もあった。だが映画のヒントになれたことはうれしい>
私はジャマイカの学校を出ると、すぐに国防軍航空団に入った。イギリスで1年半、カナダで1年にわたってヘリ操縦の訓練を受けた。
ジャマイカに帰ってきたら国防軍のロデリック・ケンドリック・バーンズ大佐から、わが国初のボブスレー代表チームのメンバー選考に応募してみないかと誘われた。
ジャマイカ在住の2人のアメリカ人ビジネスマン、ジョージ・フィッチとウィリアム・マロニーがボブスレーのジャマイカ代表を設立する計画を立て、そりを操縦できそうな男はいないかと大佐に相談していた。それが1987年8月。カルガリー冬季五輪は半年後に迫っていた。
大佐は、いい候補がいると答えた。なんと私だった。ヘリを操縦できるなら、そりも操れると考えたらしい。
でも私は、ボブスレーのことを何一つ知らなかった。その数年前に、ボブスレーの短い動画を見たことがあったが、正気の沙汰ではないと思った。
私は何とか代表の一員になった。87年のクリスマスの頃、ジョージが翌年2月のカルガリー五輪に出るぞと宣言した。私たちは必死に練習し、観光局が金銭的な支援を申し出てくれた。
2月、カナダ西部のカルガリーに着くと大変な歓迎を受けた。私は2人乗りレースに出場し、30位だった。ジョージはカナダ代表に交渉し、もう使わなくなった4人乗りのそりを借り受けた。ひどいおんぼろだったが、私たちは懸命に修理し、練習を始めた。
鎖骨を折ったまま試合に臨んだ
4人乗りの初日は惨憺たるものだった。1本目。私はそりに飛び乗ったときに頭から突っ込み、ハンドルを壊してしまった。2本目は少しよかったが、成績は伸びなかった。
2日目の朝、試合前に私は転んで鎖骨を折った。トレーナーに痛み止めのスプレーをしてもらい、試合に臨んだ。
3本目。スタートはよく、記録を大きく左右する50メートルまでのタイムは7位。だがカーブでバランスを崩し、横転した。私は頭を強く打ち、これで死ぬのかと一瞬思った。そりは横になったままゴール。4本目には進めなかった。
ジョージはボブスレー代表の物語を映画にしたがっていたが、この横転によって企画が動き始めた。『白銀のレーサー』を監督したマイケル・リッチーが興味を示し、脚本を書く権利を買い取ったのだ。