松之丞改め六代目神田伯山の活躍まで、講談は低迷していた
イラスト・細川貂々(『Pen BOOKS 1冊まるごと、松之丞改め六代目神田伯山』より)
<人気・実力を兼ね備えた神田松之丞が六代目神田伯山を襲名し、活気づく講談界。しかし、そもそも講談とは何か、きちんと知っているだろうか。その歴史から、講談と落語との違いまでを解説>
神田松之丞から、六代目神田伯山へ――。2020年2月11日、人気・実力を兼ね備え、講談界を飛び出してテレビやラジオでも活躍してきた神田松之丞が真打に昇進した。
2月16日には真打昇進までの半年間に密着した『情熱大陸』(MBS/TBS系)も放送され、話題になった。押しも押されもせぬ講談界のスターである。
このたび、これまでの神田松之丞と、これからの六代目神田伯山のすべてがわかる1冊として『Pen BOOKS 1冊まるごと、松之丞改め六代目神田伯山』(ペンブックス編集部・編、CCCメディアハウス)が刊行された。
ここでは同書から一部を抜粋し、3回に分けて掲載する。第2回は基礎知識を扱ったページ「そもそも講談って、いったいどういうもの?」から一部を掲載。落語に比べ低迷が続いていた講談だが、そもそも講談とは何か、知っていますか?
●抜粋第1回:六代目神田伯山が松之丞時代に語る 「二ツ目でメディアに出たのは意外と悪くなかった」
●抜粋第3回:爆笑問題・太田光が語る六代目神田伯山「いずれ人間国宝に」「若い子も感動していた」
文・長井好弘
そもそも講談とは――。講談という芸を語ろうとするとき、どうしても堅苦しくて、偉そうな表現を使ってしまうのは、講談そのもののルーツにかかわりがあるからだろう。
昔々、戦国時代も終わりの頃、武士が主君の御前で、『将門記』や『平家物語』などの軍書を朗読し、解説する「講義」が広く行われた。徳川家康に『太平記』を講義した赤松法印は、その評判が広まって諸侯にも呼ばれ「太平記読み」と称せられた。
江戸時代に入ると、このスタイルが「講釈」と呼ばれ、浪人の大道芸と変じ、のちには庶民向けの演芸となった。「講談」という呼び名は明治に入ってからのものである。扱う題材は、中世以降の軍記文学を手始めに、説話集、中国古典、伝奇物語、大名家のお家騒動、江戸末期には世話物も加わった。
時代とともに読み物は変わっても、軍記物以来の特徴である、男性的発声、弾む調子、歯切れの良さ、難しい熟語の多い表現と、それらがもたらす緊張感や語感の美しさは、今も昔も変わらぬ講談の魅力である。
「今、落語家は900人以上、講談師はその一割の90人しかいないが、江戸の昔は講談師が800人いたといいます」と松之丞改め六代目神田伯山が高座で胸を張る。明治17年の『東京案内』には寄席が87軒あり、その大半が講談席だった。だが、講談の人気も日清・日露戦争期をピークに衰退の一途をたどる。
活動写真など新しい大衆娯楽の台頭に押され、明治末期には「こういう古い、工夫のない芸は衰えるのが当たり前」と娯楽雑誌に書かれている。そして大正12年の関東大震災で講談席が激減。以来、80年以上にわたって講談の低迷が続いたのだった。