いい文章を書くなら、絶対に避けるべき「としたもんだ表現」の悪癖
■常套句はライターの「目を狂わせる」!?
今日の、この海が、どう美しいのか。別の日、別の場所の海と、どう違うのか。そこを、自分だけの言葉で描き出すのが、文章を書くことの最初であり、最後です。
自分が感じた美しさを、読者にも分かってもらいたい。伝えたい。だから書く。ところが多くの場合、読者だけではなく、自分にもその「美しさ」は、分かっていないんです。見えていないんです。
海や旋律や人物の美しさを、まず自分が分かっていない。言葉にしていない。つまり、考えていない。「美しい」と、なんとなく感じているだけで、それを「鏡のように静かな海」とか「抜けるような青い空」「燃えるような紅葉」「甘いメロディー」「エッジの立ったギター」と常套句で、他人の表現・他人の頭で代用して書いているだけなんです。
なぜこの海が、この旋律だけが美しいのか。「このわたし」の胸に迫ってくるのか。慰め、励ますのか。その切実が、言葉に結晶していない。
「言葉にできない美しさ」と、よく人はいいますが、それは言葉にできないのではない。考えていない。もっといえば、当の美しさを、ほんとうには感じてさえいないからなんです。
先人たちが紡いできた、それなりに豊かな言語世界でも、自分のいまの感じを十全に表現できない。ここではないどこかを目指す。そういう、ほとんど負けることがわかっている戦いに身を投じる必然性のある「困った人たち」に開かれた荒野が言葉であり、わざわざ文章を書くというのは、その荒れ野に、われとわが身とを差し出すということなんです。
ずいぶん大きな話になりましたが、さて、自分が塾生たちに酔ってわめいたらしいこの標語、「常套句は親のかたき」が、そもそも常套句なのではないでしょうか?
常套句を使って常套句を戒めるという、たいへんまぬけな話になっているのかも知れません。
【Step】■小林秀雄の問い――「花」の美しさとはなにか?
美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。
――「当麻」
そう書いたのは小林秀雄だ。短い随筆なのでライター志望者は必読だ。
ある門番や馬車の姿を、ほかのすべての門番、馬車とどう違うのか。それをわたしに描いて、わからせてくれ。フランスの作家フロベールは、弟子のモーパッサンに、そう教えた。
問題は表現しようと思うすべてのものを、だれからも見られずいわれもしなかった面を発見するようになるまで、十分長くまた十分の注意をこめて眺めることである。どんなもののなかにも、まだ探求されてない部分というものがある。
――「ピエールとジャン」
これは、わたしの言葉で言い表すと「正確に、どこまでも自分の目に忠実に書け」ということになる。