読む人の心を撃つ「うまい文章」を書くためのシンプルな三原則
③について。
〈太川陽介が路線バスに乗るテレ東の番組と言えば、そばに漫画家の蛭子能収がいるのがおきまりだが、冒頭、参加しないことが判明。本人が手紙でしたためた理由がちょっぴり切ない。/気を取り直して、番組は、二手に分かれ、路線バスとローカル鉄道の乗り継ぎ対決の旅を行う。スタートは西武秩父駅。〉
これも悪文ハンターが狩ってきた例文です。
プロの新聞記者が書いているテレビ批評ですが、どこから手をつけていいか分からないぐらいの悪文です。冒頭の一文が長ったらしいのはひとまずおくとしても、決定的なのは、「気を取り直して」の一節でしょう。ここで気を取り直すのはだれか。太川陽介か。番組のディレクターか。おそらく、この記事の筆者なんでしょうね。「わたしが」気を取り直す。そして「番組は」うんぬんと続く。それを、一文にしている。ひとつの文章に主語と述語が複数あるので、すさまじい違和感がある。
主語と述語は、一文にひとつずつでいいでしょう。もちろんこれは原則で、複文や重文にして効果を増すこともある。ですが、この記者のように、大原則を知らないで書き流しているものが大半です。原則は守ってこそ、例外に効果が出る。
「ちょっぴり切ない」と、わざわざ口頭語にして読者に媚びている。「旅を行う」は禁則表現で、記者の意識の低さを証明しています。なぜ禁則なのかは第4発で詳論します。
■「文章」とはなにか
さて、ここでふたつめの問いです。文章とはなにか。これはしちめんどくさい疑問で、まともな人間はこういうことを問題にしません。なので、初心者向けのホップでは、スルーしておきましょうか。
ただし、職業ライターを目指すなら、この問いに真剣に立ち向かわなければなりません。この本でも各所でしつこく考えます。
文章とはなにか。言葉とは、なんなのか。
ここでは、ほんの少しだけ。
漱石の小説『草枕』には、若い画家の主人公と謎めいた美女那美さんが、急に距離を縮める場面があります。漱石は、こういう男女の機微を書かせると右に出る者はいないくらい、うまい。
ふたりきりで話し込んでいた部屋で、地面が大きく揺れた。
「地震!」
勝ち気な那美さんも、さすがにおびえて主人公に近づく。女の息が、顔にかかる。
「変な気を起こしちゃだめですよ」。女が言うと、主人公は「むろん」と答える。
ところで、「地震!」や「むろん」だけを切り出すと、それは、文章でしょうか。主部と述部があって文章を構成するという観点に立てば、文章ではないですね。「地震」は言うまでもなく名詞で、「むろん」は副詞です。ところが、小説を読むと分かりますが、この品詞ひとつで、文章になり得る。