ますます許容されていく「監視」への違和感
David Moir-REUTERS
<相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件をきっかけに、措置入院患者の監視強化を求める風潮が高まっていることに違和感を覚える。権力側が「監視」を拡大することに私たちは無頓着すぎるのではないか>(写真はスコットランド・エジンバラ市内の監視モニター)
相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件を受け、その議論がたちまち容疑者の措置入院歴と監視強化の必要性に向かったのには違和感を覚えた。慎重に議論するべきだが、事件発生の原因を急いで一つに絞りたがるいつもの悪癖が稼働し、「○○が○○であれば防げたのではないか」という○○に答えを当てはめるための報道が積もっていった。
言うまでもなく認められて然るべき数多の人権を侮辱する発言を吐き続けた男による許し難い犯行を受けて、自民党・山東昭子参議院議員が「人権という美名の下に犯罪が横行している」と発言し、「犯罪予告者にもGPSを埋め込むことを検討すべき」としたのには、事件の受け止め方としてこうも歪んだ解釈があるものかと呆れに呆れたのだが、ネットを散見すると(それが世の比率だとは思わないが)頷く意見も少なくないようで驚いてしまう。
山東氏は自身のフェイスブックでも「再発防止に向けて、精神疾患のある措置入院の元患者に対しては、社会の監視を継続、場合によっては強化を考える時にきていると思わざるを得ません」と書き、「いずれにせよ私たちは誰もが安心して暮らせる社会、それぞれのハンディキャップを乗り越えて助け合う社会を目指していかねばなりません」と続けた。元患者への監視を強化すべきとする意向と、誰もが安心して暮らせる社会を目指すという宣言を並列できてしまうのは、彼女の「誰も」には「元患者」が含まれていないから、ということになる。自身の差別感情に気付けていないところが実に非道である。
東京新聞が今月8日の社説に、退院要件の厳格化や退院後の監視強化を求める風潮に対して、「軽々な制度の見直しは、精神障害者は危ないという偏見や差別を助長する」「犯罪予防という保安処分の目的で精神医療を利用し、ましてや精神障害のない人を拘束するのは許されない」という、まったく当たり前のことを書いているが、この当たり前の主張を、それなりに踏み込んだ意見として読み終えてしまった。それほどまでに今件では、「あの人は、"普通の人より危なかった"からこういうことになった」という空気感が充満していたし、そして、それに皆が慣れてしまった。
この事件に限らず、強まる監視にその都度疑問を呈するべきだ。
先月行なわれた参院選挙の公示直前、大分県警が、野党候補を支援する労働組合が入る別府地区労働福祉会館の敷地内に監視カメラ2台を設置し、出入りする人たちを数日間にわたって撮影していたことが明らかになった。労働組合の関係者がカメラを発見し、別府署に相談したところ、実は自分たちが監視していたと告白したという。なんだか落語の小咄のような展開だが、少しも笑えない。
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