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冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
印象論とテクニックに引き裂かれた日本の教育
1月16日の土曜日、アメリカニュージャージー州のプリンストン大学では、バイオリニスト五嶋みどり氏による公開レッスン(マスター・クラス)が行われました。バイオリンを学んでいる3人の学生が演奏し、これに対して五嶋氏がレッスンをつけるという2時間のプログラムで、私はたまたま見学する機会を得たのですが、「音楽とは何か」という根本の問題に迫る素晴らしいレッスンでした。五嶋氏は独奏者としては世界のトップレベルであるのは間違いありませんが、教育者としても最高の資質を、そして真摯な姿勢を持った方だということを知り、深い感動の余韻が続いています。
サン・サーンスの協奏曲三番の第三楽章を弾いた最初の学生に対して五嶋氏は、まず「この楽章の冒頭部では音楽のディレクション(方向)はどこを向いているのか?」という問い掛けをおこないました。面食らう学生に対して五嶋氏は「第三楽章は第二楽章を受けて始まり、第三楽章という新しい世界に入って行くわけで、その冒頭では明確な方向性が必要です」とした上で、「沈潜へ向かうのか、爆発へ向うのか、歌う方向へ向かうのか・・・」といった「音楽の方向性」の種類を論じていきました。そして方向性を音にするための表現方法を示していったのです。
五嶋氏の繰り返したのは「音楽というのはまず全体の構成があって部分がある」ということであり、全曲の構成があって各楽章があり、各楽章の構成があってそれぞれのフレーズの表現が決まって行くということでした。ブラームス(協奏曲の第一楽章)を弾いた学生に対しては、「ブラームスは余りにも巨大な音楽なので、細部をしっかり作って巨大さに負けないようにしなくてはならない」と指摘していましたし、バッハのパルティータを弾いた学生に対しては「今は21世紀だから21世紀風に弾いてもいいし、ロマンチックにやるのも、バロック風に弾くのも自由ですよ。でも、スタイルを選んだらそれで一貫させないと」と言っていましたが、どれも同じ意味に違いありません。楽曲全体のイメージや構成を理解して、その全体像を再現するために細部を設計してゆく、音楽の演奏とはそういうことだ、そんな明確なメッセージがそこにはありました。
至極当たり前のことですが、残念ながら日本のクラシック音楽の世界では、こうした考え方は主流ではありません。どうしてかというと、音楽に対する価値観が2つに引き裂かれているからです。一方には、メカニカルなテクニック至上の考え方があります。正確な音程とリズム、高速な部分や和音の正確な奏法などを幼児から繰り返し叩き込む、メトロノームを使って楽譜に指定してあるテンポを厳格に守らせるといったアプローチが演奏家教育にある一方で、愛好家たちは音楽とはほとんど無縁の比喩を使った音楽鑑賞の言葉のゲームに走っています。
ちょうど、この日に日本で行われていたセンター試験の国語の問題に、中沢けいさんの小説『楽隊のうさぎ』が使われていましたが、その中にある音楽の表現として「スラブ風の曲だが、枯れ草の匂いがした」とか「いわく言い難い哀しみが、絡み合う音の底から湧き上がっていた」という記述がありました。これは小説の一部ですし、音楽の感動の表現としては効果的な部類に入ると思いますから中沢さんの書き方にイチャモンをつける筋合いのものではありません。
ですが、日本の音楽評論の世界にはこれよりも更に稚拙な比喩で音楽の印象を語る言葉のゲームが溢れているのです。「さすがロシアのオーケストラ、チャイコフスキーの大地に根ざした哀しみを表現(たぶん奏法上に特徴があるのか、指揮者のテンポの取り方動かし方がそういう印象を与えるのでしょう)」とか「指揮者と独奏者の個性が火花を散らしている(情熱的な表現スタイルを2人で相談して設計しているのであって、ケンカしているのではないはずです)」などといういい加減なものが多いのです。ちなみに、TVドラマの『のだめカンタービレ』では自分の言葉に酔ってばかりいる評論家を及川正博さんが怪演していますが、あれは印象批評に走る批評家への皮肉としてなかなか良い線を行っていると思います。
メカニカルなテクニックを追う人々と、印象批評の横行する素人愛好家の世界に分裂している、こうした分裂はクラシック音楽の世界ばかりではありません。日本の文化には、特にその教育のプロセスにおいて、同様の分裂が見られます。例えば、中沢さんの小説と一緒に、今回のセンター試験の「国語」では、岩井克人氏の『ヴェニスの商人の資本論』の一節が出題されていました。労働の対価に付加価値を見出したマルクス以降の経済学は、一見すると労働の価値を評価する人間性を持っていたように見えるが、アイディアや情報が巨大な価値を持ってしまう現代社会では、労働の対価が十分な価値としては評価されなくなっている、そんな内容の評論で、個別の指摘の「命中率」はともかく、様々な知的刺激に満ちた内容です。
私はこの論文を入試に出した先生の気持ちは痛いほど分かります。大学に入りたいのなら「せめてこのレベルの文献は理解して欲しい」という祈るような気持ちが感じられる、そんな出題です。ですが、池田信夫氏がブログで指摘しているように、55万人と言われる受験生のどれだけがこの論旨を理解していたのかと思うと、かなり心配になります。仮に岩井論文の論旨がピンと来なかったとして、受験生はどうやって問題を解くのかというと、予備校などで学んだテクニック(接続詞を見て各パートの順接、逆説関係を類推する。頻出するキーワードを手がかりに著者が何をプラス、何をマイナスとしているかを推定する)を使って、まるで暗号解読をするように問題に取り組むことになります。
では、大学を受ける世代のほとんどが労働経済学などというものに全く興味がないのかというと、そうではないと思います。労働の対価について、雇用システムについて「主体的な意見」を持っている層は皆無ではないでしょう。ネット上にはそうしたコメントが飛び交っています。ですが、そうした「意見」というもののほとんどは「派遣切りや内定取り消しは許せない」とか「高齢者の資産や労働機会を若者によこせ」あるいは「安売り店が横行すると人々の賃金が下がる」といった、まるで「ロシアの大地の根ざした哀しみ」というような「印象論」と変わらないレベルに終始しているのではないかと思います。
メカニックに走るプロの卵と音楽を曖昧な印象で語って感動するだけの愛好家、この分裂と、労働経済学など興味が持てないまま暗号解読のように「現代国語」に取り組む受験生と価値判断をしているといっても「印象論」の域を出ない自称論客の分裂、思えば、高度成長やその後の安定成長期には、こうした分裂を抱えつつ、日本の社会も文化も走ってきました。ですが、これから先の超成熟社会に突入する日本では、そんな効率の悪いことを続ける余裕はないように思います。
五嶋氏のように音楽の本質に斬り込んで妥協を許さない教育者、岩井氏や池田氏のような議論を受け止めて更にそれを発展させつつ、次代の思想を担う若者を育てるような教育者、今の日本にはそうした教育者が求められているのだと思います。
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