コラム

撮影15年、編集5年、原一男監督の新作『水俣曼荼羅』

2021年11月26日(金)19時09分

原一男監督の新作『水俣曼荼羅』

<『ゆきゆきて、神軍』の原一男監督の新作。水俣病を題材に撮影に15年、編集に5年を費やした3部構成、6時間12分の大作>

『ゆきゆきて、神軍』の原一男監督の新作『水俣曼荼羅』は、水俣病を題材にした3部構成、6時間12分の大作だ。撮影に15年、編集に5年を費やしたという本作では、いまだに裁判がつづく水俣病の現実が様々な角度から掘り下げられていく。

前回のコラムで取り上げたのは、フレデリック・ワイズマン監督の『ボストン市庁舎』というやはり長尺のドキュメンタリーだったが、2作のスタイルは見事に対照的だといえる。

ワイズマンは、撮影の段階では観察に徹し、編集の段階で独自の視点を形作っていく。完成した作品には、インタビューもナレーションもテロップもないが、緻密な構成によって断片が結びつき、彼が見出した民主主義の核心がしっかりと浮かび上がってくる。

これに対して、原監督は、時間をかけて対象である水俣病患者や研究者と信頼関係を築き、彼らに寄り添い、内面まで炙り出そうとする。本作では、テロップも使用されているし、たくさんのインタビューが盛り込まれている。しかも、ただ話を聞くだけでなく、監督が自ら提案して、意外性に満ちた舞台まで用意してしまう。

小児性水俣病患者の生駒さんが、単独のインタビューで自身の結婚や新婚旅行のことを楽しそうに語れば、今度は生駒さん夫婦を新婚旅行で行った温泉の旅館に誘い、くつろいだ雰囲気でインタビューを行う。水俣病の象徴のような役割を担う胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんが恋の話をすれば、彼女を叶わなかった恋の遍歴をたどるセンチメンタル・ジャーニーに誘い、好きになった男性たちを交えてインタビューする。そんなふうにして彼らから豊かな表情や感情を引き出してみせる。

水俣病とは何なのかをあらためて考えさせる

そしてもうひとり、本作のなかで違った意味で異彩を放っているのが、水俣病を研究する熊本大学医学部の浴野教授だ。その研究を通して患者や裁判と深く関わり、水俣病とは何なのかをあらためて考えさせるヒントを与えてくれる人物でもある。

本作は2004年、政府解決案に応じることなく、認定を求めて裁判を継続した関西訴訟の最高裁の判決が確定するところから始まる。その判決では、浴野教授と二宮助手が発表した水俣病のあらたな病像論が認められ、認定基準となっていた「52年判断条件」が覆されることになった。

「52年判断基準」は、感覚障害に加えて、運動障害や平衡機能障害や視野狭窄など複数症状の組み合わせを基本要件とし、それを満たさなければ健康被害を受けていても未認定患者として切り捨てられてきた。その感覚障害がこれまでは末梢神経の障害とされてきたが、浴野教授は、大脳皮質の感覚をつかさどる部分が損傷する中枢神経の障害であることを証明した。つまり、感覚障害は水俣病の典型的な症状で、それだけで水俣病と認めることができる。

本作では、特殊な器具を使った指先や唇の感覚を調べる検査、脳や末梢神経を調べる検査などが時間をかけて映し出され、末梢神経は正常で、脳の限られた部分に損傷があり、しかも脳が病因であるために患者自身には感覚が損なわれていてもなかなかわからないことなどが明らかにされていく。

そんな病像論の見地に立てば、これまで認定されてきたのは、医学的に誤った診断に基づく「水俣病」ということになる。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

日産、武漢工場の生産25年度中にも終了 中国事業の

ビジネス

豊田織機の非公開化報道、トヨタ「一部出資含め様々な

ビジネス

中国への融資終了に具体的措置を、米財務長官がアジア

ビジネス

ベッセント長官、日韓との生産的な貿易協議を歓迎 米
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 7
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 10
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story