点字ブロックのアンパンマン、被災者侮辱、カラス生食......炎上を繰り返すツイッターの終焉は意外に近いかもしれない
リアルとバーチャルの「中間地帯」
ツイッター上の論敵は叩き潰して攻略する対象として見ているため、建設的な会話は成立しない。相手を挑発しておびき寄せ、怒らせたりやり込めたりできれば「論破」と見なし、一応のゲームクリアとなるようだ。つまり、いわゆるクソリプには「反応しない」以外の対処法はない。とはいえ、クソリプとクソでないリプの峻別は、時に困難である。
彼らはしばしば、「必死だな」「顔真っ赤」などの言葉でターゲットを嘲笑する。私は「必死であることの何がいけないのだろう? なぜこれが揶揄として成立するのだろう?」と不思議に思っていたのだが、これも「スマホゲーム」を切り口に考えれば分かりやすい。ゲーム画面に向かって必死になるのは、確かにまったく馬鹿げているからだ。
そう考えると「ツイートする前に、画面の向こうに生身の人間がいることを忘れずに」などの注意喚起は、ほとんど意味がないと分かる。彼らはゲーム画面の向こうに生身の人間を見ようとしていないし、自分自身も匿名アカウントを使い分けることで、ゲーム世界のキャラクターのように振る舞っている。
お互いを人間と見做さないからこそ気軽に言いたいことが言えるし、暴言で他人を攻撃することにも躊躇がいらない。そして、これこそツイッターの面白さを生み出しているとも言える。ツイッターとは、ゲーム世界と現実世界の中間にあるリアリティーショーのような空間なのである。
炎上の根にあるゲーム思想
「バカ発見→攻撃→インスタントな優越感」というゲーム回路が組み込まれているからだろう。ツイッター上では何をどう書いても、誰かに対する皮肉や当て擦り、あるいは巧妙なマウンティングや自慢話という、ネガティブな見え方をしてしまう。ツイッターを通すとあらゆるものが歪んで見え、人々の認識は少しずつ狂っていく。でも、誤解と誤読が頻発するからこそ、ツイッターは面白いのだ。
高校生が溺れた子供を助けたとか、落とし物が無事に持ち主のところに届いたとか、崖から落ちかけている子猫を村人が一生懸命助けたといった「心温まる良い話」すらも、ツイッター上ではゲーム的に消費する対象になる。バカ発見の戦いに疲れた心に、一服の清涼剤となるからだ。著名人が亡くなった際の「ご冥福をお祈りします」も、必ずしも本気で悲しんでいるわけではない。
最近では、点字ブロックのアンパンマンや渋谷区の公園の共用トイレ、茨城県のカラス生食、福岡県の不衛生温泉に東日本大地震の犠牲者を侮辱した高校生と、さまざまな出来事がツイッターで話題となった。
炎上した理由はどれも一理あり、特に温泉や高校生の件は批判されて当然でもある。それでも、ツイッターのタイムラインを見ていてどうにも嫌だなあと思うのは、批判の根底あるいは出発点に「バカを叩いてスッキリしたい」というゲーム感覚があるからだ。社会を良くしたいとか、本気で何かを考えたという投稿は、滅多にない。
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