コラム

今や最も恐いのは「狂信」ではない 「悪魔の詩」著者の襲撃事件が問う現代の危機

2022年08月18日(木)18時00分

「私たちが直面している最大の危機は民主主義が失われることだ」

80年代、ラシュディ氏は「帝国主義の汚物。英国のアジア系移民や黒人にとって警察は植民地の軍隊」とこき下ろす一方で「私たちはホメイニ師のイランを認めないかもしれないが、あの革命は正真正銘の大衆運動だった」と記している。白人を平気で攻撃していたラシュディ氏が白人の助けを求める状況を「暗い茶番」と皮肉る保守系メディアすらあった。

ラシュディ氏は英BBC放送とのインタビューで「『悪魔の詩』は今なら出版されなかっただろう。その判断は正しいのかもしれない」と語っている。「文明の衝突」やテロを回避するため、ムハンマドの表象や風刺は控えられるようになった。西洋とイスラムが共存していく知恵なのか、それとも「表現の自由」の自死なのか。

襲われる2週間前、ラシュディ氏は独週刊誌シュテルンに「自分の人生はごく普通に戻った。今日、多くの人々が自分に対してなされたのと同じような脅迫を受けて生きている。『悪魔の詩』を書いた当時にソーシャルメディアが存在していたならば、私の人生はもっと危険なものになっていただろう。当時はまだファクスでファトワーを送っていた」と話している。

「何が怖いかと聞かれたら、以前なら宗教的狂信と答えただろう。今、私たちが直面する最大の危機は民主主義が失われることだ。人工中絶の合憲性を認めなかった米最高裁の判決以来、米国は制御不能に陥り、崩壊するのではないかと真剣に心配している。米国やその他の地域で広がる(一見しただけでは分からないよう暗号化された)クリプトファシズムだ」

ポピュリズムに覆われる欧州ではイスラム系移民の西洋への同化政策が強化されている。ラシュディ氏の襲撃事件はこうした動きをさらに強めるため政治的に利用される可能性がある。事件がなければ、シャトークア研究所でラシュディ氏は何を語るつもりだったのか。それをまず聞いてみたい。

プロフィール

木村正人

在ロンドン国際ジャーナリスト
元産経新聞ロンドン支局長。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『欧州 絶望の現場を歩く―広がるBrexitの衝撃』(ウェッジ)、『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。
masakimu50@gmail.com
twitter.com/masakimu41

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

独新財務相、財政規律改革は「緩やかで的絞ったものに

ワールド

米共和党の州知事、州投資機関に中国資産の早期売却命

ビジネス

米、ロシアのガスプロムバンクに新たな制裁 サハリン

ビジネス

ECB総裁、欧州経済統合「緊急性高まる」 早期行動
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:超解説 トランプ2.0
特集:超解説 トランプ2.0
2024年11月26日号(11/19発売)

電光石火の閣僚人事で世界に先制パンチ。第2次トランプ政権で次に起きること

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 2
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 3
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対する中国人と日本人の反応が違う
  • 4
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでい…
  • 5
    Netflix「打ち切り病」の闇...効率が命、ファンの熱…
  • 6
    NewJeans生みの親ミン・ヒジン、インスタフォローをす…
  • 7
    元幼稚園教諭の女性兵士がロシアの巡航ミサイル「Kh-…
  • 8
    【ヨルダン王室】生後3カ月のイマン王女、早くもサッ…
  • 9
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」…
  • 10
    プーチンはもう2週間行方不明!? クレムリン公式「動…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査を受けたら...衝撃的な結果に「謎が解けた」
  • 3
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り捨てる」しかない理由
  • 4
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 5
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 6
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 7
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 8
    アインシュタイン理論にズレ? 宇宙膨張が示す新たな…
  • 9
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 10
    クルスク州の戦場はロシア兵の「肉挽き機」に...ロシ…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大きな身体を「丸呑み」する衝撃シーンの撮影に成功
  • 4
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 5
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 6
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 7
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 8
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
  • 9
    モスクワで高層ビルより高い「糞水(ふんすい)」噴…
  • 10
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story