コラム

今や最も恐いのは「狂信」ではない 「悪魔の詩」著者の襲撃事件が問う現代の危機

2022年08月18日(木)18時00分

殺人未遂罪で起訴されたマタル被告はシーア派民兵組織ヒズボラ幹部を連想させる偽名を使っていた。母親は英大衆紙デーリー・メールに「離婚してレバノンに帰った父親を2018年に訪ねてから、地下室に鍵をかけて何カ月も家族と話すのを拒み、宗教に傾倒するようになった。どうしてイスラム教を教えてくれなかったと詰め寄られた」と話した。

ムンバイ出身のラシュディ氏は、「無神論者こそ神の偉大さを知る」という弁護士の父の考えに同意して無神論者になった元イスラム教徒。「真夜中の子供たち」(1980年)、「恥」(1983年)で英文壇に旋風を巻き起こした。隠遁生活について「憂うつ、当惑、精神錯乱、孤独だ。誰とも話すことができないのは本当に恐ろしいことだった」と回想している。

「表現の自由」とイスラムの衝突

「悪魔の詩」の出版に関わった人たちも世界中で悲劇に襲われている。89年「悪魔の詩」の出版社が所有する書店の外に爆弾が仕掛けられた。91年にはイタリア語に翻訳したエットーレ・カプリオーロ氏がミラノの自宅で刺された。日本語翻訳者の筑波大学の五十嵐一助教授=当時(44)=がキャンパスで首などを切られて殺害された。五十嵐氏の事件は未解決だ。

93年にはトルコの翻訳者アジズ・ネシン氏の宿泊先ホテルが放火された。ネシン氏は何とか脱出できたが、37人が犠牲になった。その数カ月後、ノルウェーの出版者ウィリアム・ナイガード氏がオスロの自宅の外で3発撃たれ、重症を負った。欧米の文化の根幹をなす「表現の自由」とイスラムの対立はその後も世界を揺さぶり続けている。

「文明の衝突」の象徴になった2001年の米中枢同時テロ。04年、イスラム社会での女性への暴力を描いたオランダ人映画監督の暗殺。05年、ロンドン地下鉄・バス同時爆破と、デンマーク紙のムハンマド風刺画事件。15年の仏風刺週刊紙シャルリエブド襲撃や死者130人を出したパリ同時多発テロと、対立はイスラム過激派に利用されてきた。

事件を受け、ジョー・バイデン米大統領は13日、「衝撃を受けた。世界中の人々とともに彼の健康と回復を祈る。私たちはラシュディ氏と表現の自由を守るすべての人々と連帯し、米国の価値観への深いコミットメントを再確認する」との声明を発表した。英国、オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ首脳も「表現の自由」に対するテロを一斉に非難した。

プロフィール

木村正人

在ロンドン国際ジャーナリスト
元産経新聞ロンドン支局長。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『欧州 絶望の現場を歩く―広がるBrexitの衝撃』(ウェッジ)、『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。
masakimu50@gmail.com
twitter.com/masakimu41

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、貿易に焦点 習氏との首脳会談で=米高官

ビジネス

米国株式市場=主要3指数最高値、予想下回るCPI好

ワールド

ロシア凍結資産、ウクライナ支援に早急に利用=有志連

ワールド

米の対ロ制裁、プーチン氏にさらなる圧力=NATO事
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:脳寿命を延ばす20の習慣
特集:脳寿命を延ばす20の習慣
2025年10月28日号(10/21発売)

高齢者医療専門家の和田秀樹医師が説く――脳の健康を保ち、認知症を予防する日々の行動と心がけ

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    超大物俳優、地下鉄移動も「完璧な溶け込み具合」...装いの「ある点」めぐってネット騒然
  • 2
    中国レアアース輸出規制強化...代替調達先に浮上した国は?
  • 3
    「宇宙人の乗り物」が太陽系内に...? Xデーは10月29日、ハーバード大教授「休暇はXデーの前に」
  • 4
    為替は先が読みにくい?「ドル以外」に目を向けると…
  • 5
    ハーバードで白熱する楽天の社内公用語英語化をめぐ…
  • 6
    「ママ、ママ...」泣き叫ぶ子供たち、ウクライナの幼…
  • 7
    報じられなかった中国人の「美談」
  • 8
    シンガポール、南シナ海の防衛強化へ自国建造の多任…
  • 9
    【ムカつく、落ち込む】感情に振り回されず、気楽に…
  • 10
    【クイズ】1位は「蚊」...世界で「2番目に」人間を殺…
  • 1
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 2
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号返上を表明」も消えない生々しすぎる「罪状」
  • 3
    今年、記録的な数の「中国の飲食店」が進出した国
  • 4
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
  • 5
    【クイズ】1位は「蚊」...世界で「2番目に」人間を殺…
  • 6
    超大物俳優、地下鉄移動も「完璧な溶け込み具合」...…
  • 7
    報じられなかった中国人の「美談」
  • 8
    【2025年最新版】世界航空戦力TOP3...アメリカ・ロシ…
  • 9
    本当は「不健康な朝食」だった...専門家が警告する「…
  • 10
    「ママ、ママ...」泣き叫ぶ子供たち、ウクライナの幼…
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 3
    「大谷翔平の唯一の欠点は...」ドジャース・ロバーツ監督が明かすプレーオフ戦略、監督の意外な「日本的な一面」とは?
  • 4
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 5
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
  • 6
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 7
    バフェット指数が異常値──アメリカ株に「数世代で最…
  • 8
    「日本の高齢化率は世界2位」→ダントツの1位は超意外…
  • 9
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 10
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story