コラム

今や最も恐いのは「狂信」ではない 「悪魔の詩」著者の襲撃事件が問う現代の危機

2022年08月18日(木)18時00分
サルマン・ラシュディ氏

サルマン・ラシュディ氏(2018年6月) Carsten Bundgaard/Ritzau Scanpix/via REUTERS

<「悪魔の詩」著者のサルマン・ラシュディ氏が襲撃された事件により、表現の自由と民主主義が危機に瀕していることが改めて浮き彫りとなった>

[ロンドン発]イスラム教の預言者ムハンマドを題材にした小説「悪魔の詩」で世界的な論争を巻き起こした英作家サルマン・ラシュディ氏(75)を刺して重傷を負わせたニュージャージー州在住のハディ・マタル被告(24)が17日、米大衆紙ニューヨーク・ポストとの獄中インタビューに応じ、「彼が生き延びたと聞いて驚いた」と話した。

「悪魔の詩」を巡ってはイラン最高指導者ホメイニ師(故人)が1989年「イスラムを冒涜している」とラシュディ氏と出版関係者に「死刑」を命ずるファトワーを宣告。ラシュディ氏は「ジョセフ・アントン」という偽名で警察に保護され、最初の半年に56回引っ越して身を隠したが、イランの「暗殺を支持しない」との公約を受け、2002年に保護は解除された。

黒と白のジャンプスーツと白い布製マスクを着けたマタル被告は「ホメイニ師を尊敬している。偉大な人だ。『悪魔の詩』は2、3ページしか読んでいないが、ユーチューブでラシュディの講演をたくさん視聴した。彼を好きではない。あまりいい人だとは思わない。ああいう不誠実な人は嫌いだ」と語った。

マタル被告はイラン革命防衛隊やイスラム教シーア派過激派を支持していたとみられているが、イラン革命防衛隊との接触は否定し、「冬のある時期にラシュディの訪問を知らせるツイートを見て、講演会場の米シャトークア研究所(ニューヨーク州)に行く気になった」と打ち明けた。犯行前夜は外の芝生で寝て、チケットを買って入場したという。

「ラシュディ氏のいつもの気迫と反抗的なユーモアのセンスは健在」

ラシュディ氏は12日、宗教・社会・政治問題を探求するシャトークア研究所での講演会でマタル被告に首や腹などを少なくとも10回刺された。ラシュディ氏は片目や肝臓を損傷し、片腕の神経が切断される恐れもある重傷を負った。人工呼吸器が外されると、冗談を言ったり、話したりしたという。

ラシュディ氏の家族は「いつもの気迫と反抗的なユーモアのセンスは健在」と言う。イラン最高指導者ハメネイ師は17年に「ファトワーはホメイニ師が出した通り、有効だ」と再確認した。しかし今回、イラン側は「いかなる関係も断固として否定する」とする一方で「表現の自由はラシュディ氏が著作の中で宗教を侮辱することを正当化していない」と強調した。

プロフィール

木村正人

在ロンドン国際ジャーナリスト
元産経新聞ロンドン支局長。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『欧州 絶望の現場を歩く―広がるBrexitの衝撃』(ウェッジ)、『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。
masakimu50@gmail.com
twitter.com/masakimu41

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

豊田織機の非公開化報道、トヨタ「一部出資含め様々な

ビジネス

中国への融資終了に具体的措置を、米財務長官がアジア

ビジネス

ベッセント長官、日韓との生産的な貿易協議を歓迎 米

ワールド

アングル:バングラ繊維産業、国内リサイクル能力向上
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 7
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 8
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 6
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story