トルコから贈る千夜一夜物語
「100年に一度」といわれるトルコ南東部で起きた大地震
既に皆さまもご存じの通り、トルコ南東部を震源とする大地震が 2023 年 2 月 6 日の明け方に発生しました。最初の震源地はガジアンテプ県に属する Nurdağı (ヌールダー) 付近でマグニチュード 7.8。時をそれほど開けずに起きた 2 回目の地震の震源地は Ekinözü (エキノズ) というカハラマンマラシュ付近でマグニチュード 7.5。今回の地震は規模が広範囲で、10 都市に甚大な被害が及んでいます。さらにトルコのみならず、内戦で疲弊したシリア北部も壊滅的な被害を受けています。
悲惨な光景はニュースで何度も流されていると思いますので、それについてここで触れる必要はないかと思います。被害が特に大きいのは、アンタキヤ、カハラマンマラシュ、マラティア、アドゥヤマンなど (シリアの被害はこれらよりもっと甚大だといわれています)。地震発生直後にアドゥヤマンに入った私の友達によると、控えめに見積もっても街の半分は完全に崩壊していたということです。
実はこのアドゥヤマンで私の大切なトルコ人の友達を 1 人亡くしました。住んでいたアパートが倒壊し、1 階に住んでいた友達は家族と共に帰らぬ人となりました。私はこの友達に会いにアドゥヤマンに何度か足を運んだこともあり、同じ建物の別の階に住む子供たちとも交流がありました。彼らすべてが亡くなりました。
地震発生直後の安否確認でこの友達とだけ連絡が取れない状況が続きました。「アパートが倒壊して下敷きになっているのかも...」というある友達の言葉で、急きょガジアンテプから友達数人がアドゥヤマンに出かけることになりました。途中の光景はとてもひどいものだったそうです。道路もあちこちで陥没し、アパートというアパートが軒並み倒れている状態。倒壊したビルで道路がさえぎられ、なかなかこの友達の家にたどり着くことができなかったそうです。
やっとたどり着いた末に見たのは、パンケーキのように何層にも積み重なりぺったんこになったこの友達のアパート。この時点で「生きていないかもしれない」と思ったそうです。それでも友達数人はドリルで穴をあけ、何とか探し出そうと努力しました。誰の声かは分かりませんが、声は初めは聞こえていたようです。
この時点で、アドゥヤマンに最初に駆け付けたのはこのガジアンテプからのグループだけ。周りの至る所でアパートが倒壊しており、「どうか私たちを助けて! 子供が生き埋めになっているの」などとたくさんの人が涙ながらに訴えてきたようです。でも当然手が足りるはずはありません。朝から夜中の 1 時まで大雨の中、そして大寒波の中探し続けましたが、結局見つけることはできませんでした。その作業中に同じ建物に住んでいた 2 人の子供を救出したそうです。が、1 人は救出後に病院で死亡。もう 1 人がどうなったかは分からないそうです。
アドゥヤマンにはこの後も何日も救援の手は届かず、この間に亡くなっていった方が非常に多いと思います。折しもトルコ南東部を大寒波が襲っていました。氷点下の中、がれきの下でどれほどの人が亡くなっていったのか...。つい昨日、やっとこの友達のアパートのがれきが撤去され、遺体が収容されたと連絡がありました。地震発生から6 日目のことです。
私が亡くしたのは 1 人だけ。でもこんな光景が 10 都市のあちこちで見られていたし、現在も見られているのです。この地震による死者は現時点で 3 万人近くといわれていますが、最終的にこの数は数倍に登る可能性があります。地震発生から 7 日目となる今現在も被害が大きいエリアで救出作業が続けられており、地震から 155 時間後に生きて救出される人もいます。まだ希望がある...そんな思いで救援隊の方々は頑張っておられます。とはいえ、遺体からのにおいがし始めてもいるということで、打ち切りの決定が求められる時が近づいているのかもしれません。
なぜこんなに壊滅的な被害が出ているのか、という疑問が沸くかもしれません。この地域では 200 年ほど目立った地震が起きていなかったようで、しかも地震が起きるという予兆すらなかったようです (こちらの記事を参照)。ですから地震が発生するであろうといわれていた他の地域に比べて備えができていなかったことは確かです。実際ガジアンテプに移動したとき、トルコ人の誰もが「この辺では地震は起きないよ」と話していたのを思い出します。トルコは地震大国として知られていますが、大地震が起きる可能性があるエリアとして主に重きが置かれていたのはイスタンブールで、南東部に関してはほぼノーマークだったといえます。
私が住むガジアンテプ市の被害は最小限に抑えられています。ニュースで報道されているような光景は私の周りでは見ることがなく、ガジアンテプ市内で一番古いエリアに数えられるところでも倒壊した建物はありません。もちろんガジアンテプ市内でも倒壊が見られたところはあります。とはいえ、建物が軒並み倒壊して街全体が廃墟のようになってしまった別の県と比べると被害はかなり少ないといえます。
ガジアンテプ市内では、Ibrahimli (イブラヒムリ) と呼ばれるエリアや Emek (エメック) と呼ばれるエリアで建物の倒壊が見られます。同じ揺れに持ちこたえてすくっと立っている建物の横で崩れ落ちて完全にがれきと化した建物があります。これはやはり建築方法や建築資材に差があったと考えるべきなのでしょうか。
私の家では、落ちた食器すらなし。実は私は地震発生当時はヨルダンに出張中で、被災はしませんでした。地震発生後 2 日目にガジアンテプの自宅に帰宅しましたが、足の長いアイロン台やタンスの上に載せていたトランクが倒れたり落ちたりしている程度でした。もともとガジアンテプ市は岩の上に立っているので地震に強いといわれていましたが、この被害の度合いから察するに本当にそうなのかもしれません。あるいはガジアンテプ市内に限るなら、今回の地震が左右に揺れるタイプではなく、上に突き上げるタイプの揺れだったからなのかもしれません。
とはいえ、倒壊は免れたものの大きく亀裂が入った建物も多く、ガジアンテプ市内では当局によって建物の安全性を 1 件 1 件チェックする作業が始まっています。被害が少ないとみなされた建物には住むことができますが、被害が中程度以上の建物は補強されるか取り壊されるかになるようです。倒壊しなかったものの古い建物も多くありますので、古いものは順次新しくされていく計画だということです。気が遠くなるような計画です。しかもこれは被害が比較的少なかったガジアンテプ市内の都市づくり計画です。ほぼ壊滅状態になった県は立て直すことができるのでしょうか...あるいはどのくらいの期間がかかるのでしょうか...。復興にはかなりの期間が必要です。
さて、私のところにはテレビ局から現地の事情を教えてほしいという依頼が入ってきます。が、失われた命の重さ、現在も続く救出作業、トルコが被った甚大な損失、家をなくして苦しい生活を強いられている人々のことを考えると、ほとんど被害を受けていない私があたかも当事者であるかのように軽々しく語ることはできないと感じます。今は身近な友達や知り合いのためにできることに注意を集中したいと思っています。
現在は救出作業に重点が置かれていますが、今後復興に向けた作業への人員が大量に必要とされると思います。今は各国メディアがこぞって報道するトルコ大地震。でも数か月もすればやがて報道されなくなっていくのかもしれません。復興への道は遠くて険しい。そして地道で目立ちません。でも私としてはその作業にこそ参加していきたいと思っています。
著者プロフィール
- 木村菜穂子
中東在住歴17年目のツアーコンサルタント/コーディネーター。ヨルダン・レバノンに7年間、ドイツに1年半、トルコに7年間滞在した後、現在はエジプトに拠点を移して1年目。ヨルダン・レバノンで習得したアラビア語(Levantine Arabic)に加えてエジプト方言の習得に励む日々。そろそろ中東は卒業しなければと友達にからかわれながら、なお中東にどっぷり漬かっている。
公式HP:https://picturesque-jordan.com