コラム

小説『ロリータ』のモデルとなった、実在した少女の悲劇

2018年10月05日(金)15時30分

多くの男性が「ロリータ」を性的なファンタジーの対象として読んだ courtneyk/iStock.

<優れた文芸小説『ロリータ』によって、男性の性的ファンタジーである「大人の男を誘惑する少女」のイメージが浸透してしまった>

日本では、ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』のことを知らない者はいないだろう。

心理学者が前書きをしている犯罪者の手記、という手がこんだ形のフィクションで、その告白文の語り手が、少女性愛者のハンバート・ハンバート(仮名)だ。パリ生まれのハンバートは、ヨーロッパで過ごした子供時代に性的な体験を共有した少女アナベルのことを忘れることができず、少女のような未熟な体を持つ女性との関係で追体験をしようとしてきた。

30代後半になったハンバートは、移り住んだアメリカ・マサチューセッツ州の田舎町で、下宿先の娘である12歳のドローレス・ヘイズ(ロー、ドリー、ロリータ)に一目惚れし、欲情をいだく。彼はドローレスと一緒にいるために母親シャーロットと仕方なく結婚するが、邪魔者であるシャーロットを排除することを夢想し続ける。

ドローレスが夏期キャンプで不在のときにハンバートの本心を知ったシャーロットは、諍いの後に道に飛び出して事故死する。ハンバートはドローレスには母親が病気だと偽り、彼女を連れてアメリカ中を転々とする旅に出る。ハンバートは見知らぬ者には実の父娘を装いながらもロリータと性的な関係を持つーー。

『ロリータ』は1953年に完成したが、アメリカの大手出版社はいずれも出版を拒否した。そこでナボコフは、出版を快諾した(ややいかがわしいことで知られる)フランスのオリンピア社から1955年に初版を出した。それが話題になり、1958年にようやくアメリカで出版されたという逸話がある。

少女や幼女を性愛の対象にする心理である「ロリコン」という日本独自の表現は、もともとはナボコフの『ロリータ』と後に出版されたノンフィクション『ロリータ・コンプレックス』から来ている。

『ロリータ』はフィクションだが、ナボコフにインスピレーションを与えた実際の事件があったという。ベテランの犯罪ノンフィクション作家であるサラ・ワインマンの新刊『The Real Lolita(実存のロリータ)』によると、ナボコフはこの事件から相当多くのインスピレーションを受けていると考えられる。

1948年、50代のフランク・ラ=サールが、FBIの捜査員を装ってニュージャージー州で11歳の少女サリー・ホーナーを誘拐した。ラ=サールは少女を連れて車でアメリカ中を逃亡し、サリーが自分で逃亡するまでの2年間レイプし続けた。13歳で救助されたサリーだが、15歳の若さで車の事故で死亡した。

ナボコフはこの事件との関連を1977年に否定したようだが、類似点は多い。

ドローレス(ドリー)とサリーの年齢はほぼ同じで、母親はどちらも未亡人のシングルマザーだ。そして、ハンバートとラ=サールのどちらも車で逃亡の旅を続け、旅先では父と娘を装っていた。どちらも「(自分の言うことをきかないと)少年院に行くことになる」という脅しで少女を心理操作した。

『ロリータ』の中にも、「私がドリーに対してやったことは、1948年に50歳の修理工のフランク・ラ=サールが11歳のサリー・ホーナーにやったことではないか。たぶん」という文章が出てくるので、ナボコフが事件をよく知っていたのは明らかだ。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、北朝鮮の金総書記と「コミュニケーション

ビジネス

現代自、米ディーラーに値上げの可能性を通告 トラン

ビジネス

FRB当局者、金利巡り慎重姿勢 関税措置で物価上振

ビジネス

再送-インタビュー:トランプ関税、国内企業に痛手な
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 2
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者が警鐘【最新研究】
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 5
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 6
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 7
    3500年前の粘土板の「くさび形文字」を解読...「意外…
  • 8
    メーガン妃のパスタ料理が賛否両論...「イタリアのお…
  • 9
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2…
  • 10
    なぜ「猛毒の魚」を大量に...アメリカ先住民がトゲの…
  • 1
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き詰った「時代遅れ企業」の行く末は?【アニメで解説】
  • 2
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 3
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山ダムから有毒の水が流出...惨状伝える映像
  • 4
    【独占】テスラ株急落で大口投資家が本誌に激白「取…
  • 5
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥ…
  • 6
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 7
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジ…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】アメリカを貿易赤字にしている国...1位は…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story