日本の中心は諏訪にあり 「原日本」を求めて諏訪大社の秘密に迫る
◆日本のルーツは諏訪にあり?
入ってきた方向から見て左手の、拝殿裏の鳥居から上社本宮の境内を出る。こちらの参道には旧街道筋と寺町の名残りを感じさせる家並みが残るが、観光ルートにもなっている現代の正面入口は、入ってきた方の鳥居だ。そちらには土産物店や食事処、駐車場、博物館がある。一方、こちら側には土産物店や茶店が何軒あるものの、ほとんどが営業しておらず、廃屋も少なくない。その寂れた参道の出口にはもう一つ大鳥居があって、その先には八ヶ岳が勇壮にそびえていた。そんな光景を見ると、自然信仰的にも、こちら側の方が本来の正面なのではないかと思えてしまう。
鳥居を過ぎて、まずは守矢家に向かう。東京から日本海を目指すルート全体から見ると少し引き返す形になるが、諏訪信仰の核心はここにあると睨んだ手前、立ち寄らないわけにはいかない。前回・前々回と歩いた筆者の自宅がある茅野市に再び入ると、すぐに守矢家がある。『神長官守矢史料館』として一般開放されている敷地内には、資料館と古代信仰の遺物であるミジャグジ社がある。隣接地には古墳もあり、まさに諏訪の、いや日本の歴史が凝縮した究極のパワー・スポットだ。守矢家は令和の今も78代当主・守矢早苗氏が引き継いでおり、ここは個人宅の敷地でもあるから、入口には一般の民家と変わらず表札が出ていた。
資料館の建築は、地元出身の有名建築家、藤森照信の設計で、来場者は建築目当てか歴史マニアに二分されるそうだ。僕はどちらにも興味があるが、今回は歴史の方がメインである。説明員のおじさんがマンツーマンで熱っぽく守矢家と諏訪大社の歴史を解説してくれるのだが、そのポイントは以下の4点である。
・守矢家は今から1500年以上前、大和朝廷の力がこの地に及ぶ前(即ち諏訪大社建立前)から、土着部族の長であった。その文化は、守屋山を神の山とする自然信仰に根ざしていた。
・諏訪大社は、『古事記』に伝わる日本神話の神、「タケミナカタ」が、ライバル神であるタケミカヅチとの戦いに敗れて出雲から諏訪の地に逃れ、祀られたのが起源とされる。
・その際、もともと諏訪の地を支配していた守矢家の支配はタケミナカタ(=大和系の中央勢力)に取って代わられたが、共存の道も図られた。即ち、守矢家は滅ぼされることなく、諏訪大社の祭祀の実権を握る神長官職に据えられた。この体制は、明治維新まで脈々と続いた。
・守矢家が守ってきた諏訪大社の祭祀の中心は、前宮で行う「御頭祭(おんとうさい)」であった。春先に、鹿・猪・ウサギ、魚などを供物にして行う祭祀で、主に狩猟の成功を祈って行われた(現在も名称を変えて形式的に受け継がれているが、五穀豊穣祈願に変化している)。
つまり、守矢家とは、縄文的な自然信仰・狩猟文化に根ざした神話時代よりもさらに前の"原日本" を象徴する一族である。諏訪信仰とは、それに取って代わった中央集権下の大和文化と縄文的文化が融合した、原始的な形を残す信仰の形と言えよう。神話時代より前という、とてつもなく古い話なので正直頭がクラクラするが、それだけに、僕は「日本のルーツは諏訪にあり」と高らかに宣言したい。
余談だが、第16回で縄文の巨石信仰にも触れたが、守屋山には今もハイキングコースになっている巨石群がある。僕はまだ行ったことがないが、遠い昔は一つの岩だったという俗説も成立しそうな風景らしい。僕はつい、「巨石に宇宙人がUFOで降り立って、縄文の人々に知恵を授けて・・・」なんていう妄想をしてしまう。なにしろ、守矢家の敷地内には、諏訪信仰以前のミジャグジ社の祠があり、守屋山の方向にはUFOを思わせる藤森照信設計の空中茶室を見ることができるのだ。そんな妄想を膨らさないわけにはいかない光景が、この"日本の中心地"にはあった。
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